요한복음 묵상 【하나님을 죽이려는 자들】 20250211(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 11:45~57 11:45 마리아에게 와서 예수의 하신 일을 본 많은 유대인이 저를 믿었으나 11:46 그 중에 어떤 자는 바리새인들에게 가서 예수의 하신 일을 고하니라 11:47 이에 대제사장들과 바리새인들이 공회를 모으고 가로되 이 사람이 많은 표적을 행하니 우리가 어떻게 하겠느냐 11:48 만일 저를 이대로 두면 모든 사람이 저를 믿을 것이요 그리고 로마인들이 와서 우리 땅과 민족을…

ヨハネによる福音書 黙想 【ラザロよ、出て来なさい】 20250203(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 11:36~44 11:36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」 11:37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。 11:38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。 11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」 11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」 11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」 11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」 イエス様がすでに死んだラザロを生き返らせた物語です。イエス様はラザロが亡くなり、四日が過ぎた後に葬儀の場に到着されました。しかし、ラザロの家に到着したイエス様にラザロの命を求める人は誰もいませんでした。誰もイエス様に「癒してください」と願わず、「生き返らせてください」と求めることもありませんでした。ただ、「主よ、もっと早く来てくださっていたなら、彼は死ななかったのに」と、恨みがましく嘆く言葉があるだけでした。人々の悲しみには限りがありませんでしたが、彼らはイエス様の力には限界があると考えていました。 イエス様は、体が腐敗し、自然に還ろうとしていたラザロの前に立たれました。イエス様がその時に到着されたのは、偶然ではなく、意図的なものでした。イエス様は、ラザロが亡くなるまでわざと家に行かず、彼が危篤であった時にも急いで向かわれることなく、時間を遅らせました。それは、イエス様が時間を統制しているのは、信仰において必ず学ばなければならない必修の授業を備えておられたからでした。 イエス様は、障害を持つ人を癒し、死にかけた病人を救い、ナインの町のやもめの息子を生き返らせ、またヤイロの娘をも生き返らせました。しかし、そのたびに人々はそれを「死に打ち勝った出来事」ではなく、「命が少し延びた奇跡」として喜んでいました。しかし、ラザロの場合は異なりました。彼は死後すでに腐敗が始まり、その状態から再び生き返ったのです。これは否定しようのない「復活」でした。死が訪れる前に奇跡を行い、死を未然に防いだのではなく、医学的に明らかな「死」を覆し、復活させた出来事だったのです。 イエス様はマルタに問いかけられました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。11:25、26」イエス様は、イエス・キリストを信じる信仰が、死を超えて広がるものであることを教えなければなりませんでした。罪を赦し、死を打ち破る信仰がなければ、信仰は単なる現実的な助けを求める手段にすぎなくなってしまいます。そして今、週の始まりの忙しい月曜日の朝、イエス様は私たちにもう一度問いかけておられます。「わたしはよみがえりです。いのちです。あなたは、このことを信じますか?」

요한복음 묵상 【나사로야 나오라】 20250210(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 11:36~44 11:36 이에 유대인들이 말하되 보라 그를 어떻게 사랑하였는가 하며 11:37 그 중 어떤이는 말하되 소경의 눈을 뜨게 한 이 사람이 그 사람은 죽지 않게 할 수 없었더냐 하더라 11:38 이에 예수께서 다시 속으로 통분히 여기시며 무덤에 가시니 무덤이 굴이라 돌로 막았거늘 11:39 예수께서 가라사대 돌을 옮겨 놓으라 하시니 그 죽은 자의 누이 마르다가…

ヨハネの福音書 黙想 【死で終わる病気】 20250208(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 11:1-16 11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。 11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。 11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。 11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」 11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。 11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」 11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」 11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」 11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。 11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。 11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」    日々発達していき、注目されている科学の中でも、最も注目される分野は医学でしょう。 科学の中には、科学者ではない一般人にとって少し便利になるだけ、気になっていた疑問が解消されることに止まる分野も多い反面、医学はすべての人に適用され、すべての人が必要性を感じる分野であるためです。それなら、なぜ人は医学に必要性を感じているのでしょうか。 それは、そのすべての人に訪れてくる「死」があるためです。    その死を避けようと、少しでもその時を遅らせようと医学は発展し続けてきました。 しかし、そのような発展にもかかわらず、今もなおこの死を完全に解決することはできませんでした。 それはすべての人々が持っている一つの「病気」のためです。    今日の箇所のラザロは病気によって病み、やがて死を迎えました。 実際にイエス様も彼は死んだとをおっしゃっています。 しかし、イエス様はラザロの病気を指して、「死で終わるものではない」と言われました。 彼が死んでしまうことを知っていたにもかかわらず、そのように言われたのです。 イエス様の目線で、その病気はラザロを「完全に」死なせることはできない病気だったのです。    しかし、すべての人が持っている、その存在を完全に死なせることができる病気があります。 それは「罪」という病気です。 その病気はこの世の誰も治せない病気です。 だからこそ、その病気を治せる唯一の存在、イエス様がこの地に来られたのです。    イエス様はこの地に来られて、ただ人々の肉の病気だけを治してくださったのではありません。 人々の本質の中にある罪という病気を治すために、十字架の死と復活という唯一で、確実な処方をしてくださったのです。…

요한복음 묵상 【죽음에 이르는 병】 20250208(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 11:1-16 11:1 어떤 병자가 있으니 이는 마리아와 그 자매 마르다의 마을 베다니에 사는 나사로라 11:2 이 마리아는 향유를 주께 붓고 머리털로 주의 발을 닦던 자요 병든 나사로는 그의 오라버니더라  11:3 이에 그 누이들이 예수께 사람을 보내어 이르되 주여 보시옵소서 사랑하시는 자가 병들었나이다 하니 11:4 예수께서 들으시고 이르시되 이 병은 죽을 병이 아니라 하나님의 영광을…

ヨハネの福音書 黙想 【冒瀆される神】 20250207(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 10:32-42 10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」 10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」 10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。 10:35 神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、 10:36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒瀆している』と言うのですか。 10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。 10:38 しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」 10:39 そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。 10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。 10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。 10:42 そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。  世の中の数多くの偶像に仕える宗教と異端カルトの中で、「神性冒瀆」という言葉は、本当に便利で都合いい言葉です。 自分たちの主張に反する者、または自分たちの思い通りに動かない者たちを「神聖冒瀆」という言葉一つで簡単に排除し、追い出すこともできるからです。    当時のユダヤ人の民族信仰であったユダヤ教で「イエス」という存在はあまりにも気に障る者、目の敵のような存在でした。 自分たちが築き上げてきた律法を否定し、むしろ自分たちの解釈とは違うことを教えるまで、さらには自分たちが信じる神を父と呼び、まるで自分が神でもあるように語るまで、このように宗教的な理由でも、政治的な理由でもユダヤ教の指導者たちの立場から見るイエスという存在は必ず排除しなければならない存在でした。 そして、そのための最も直観的で現実的な方法の一つがまさに「神性冒瀆」という罪をかぶせることでした。    しかし、当時のユダヤ人、そしてユダヤ教の指導者たちは知らなかったこと、しかし、聖書の御言葉を受け、読んでいる私たちは知っていることがあります。 それはイエス様がまさに彼らが守ろうとした「神性」そのものである方であるということです。 彼らは「神性冒瀆」という理由でイエス様を排除しようとする「神性冒瀆」をしていたのです。    イエス様の立場から見れば、自分が神性冒瀆をしていると、彼らから自分の神性が冒瀆されていたのです。 神性冒瀆という罪がどれほど重く、大きな罪なのかを知っているユダヤ人たちがイエス様を石打ちで殺そうとしたように、その場でイエス様が彼らを即決審判してもおかしくないです。    しかし、イエス様はそうはしませんでした。 まだご自分の時が満ちていなかったからです。 今されているこの冒瀆よりもはるかに大きい、神様の呪いを受けた者とされる使命がイエス様にはあったためです。 まさに彼らの神性冒瀆の天辺である十字架の事件です。    申命記の御言葉では、木にかかった者は皆、神の呪いを受けた者だと語られています。 そしてユダヤ人の立場で十字架にかかって死んだイエス様は神様の呪いを受けて死んだ罪人になるでしょう。 しかし、その十字架の上でイエス様はこう言われました。 彼らは自分たちのしていることを知らずに行っています、彼らのことを許してくださいと。    イエスはこの地で神性冒瀆をしている彼らを救い、赦すために来られました。 そのすべての冒瀆と冒瀆の代価をご自分で受け取るために来られました。 もっと直接に言えば、自ら冒瀆されるために来られたのです。    私たちは今、この瞬間にも「冒瀆」という罪を犯しているかもしれません。 神を神としないこと、イエス・·キリストを主に認めながらも、まるで自分が主であるように生きていくこと、私たちの考えの中に神様の御業を取り囲んでしまうこと、他にも多くのことで私たちは神様を冒瀆する罪を犯しながら生きています。    イエス様はそのような私たちのためにこの地に来られました。…

요한복음 묵상 【모독 당하는 신성】 20250207(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 10:32-42 10:32 예수께서 대답하시되 내가 아버지로 말미암아 여러 가지 선한 일로 너희에게 보였거늘 그 중에 어떤 일로 나를 돌로 치려 하느냐 10:33 유대인들이 대답하되 선한 일로 말미암아 우리가 너를 돌로 치려는 것이 아니라 신성모독으로 인함이니 네가 사람이 되어 자칭 하나님이라 함이로라 10:34 예수께서 이르시되 너희 율법에 기록된 바 내가 너희를 신이라 하였노라 하지 아니하였느냐…

ヨハネによる福音書 黙想 【存在は関係の中で成り立つ】 20250206(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 10:22~31 10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。 10:23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。 10:24 ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」 10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、 10:26 あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。 10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。 10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。 10:30 わたしと父とは一つです。」 10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。   イエス様の羊になることは、自由意志による選択なのか、それとも神様の予定によるものなのか?この本文は、人間の自由意志と神の予定論の間にあった長年の課題を再び呼び起こします。しかし、問題が難しいときは、まず解決できることから考えるのがよいでしょう。確かなことは、良い牧者とその羊との間には、絶対的な信頼と安定が存在するということです。羊がどのようにして羊飼いの羊になったのかを認識論的に説明できないとしても、羊は現在、存在論的な安定と幸福の中にいます。たとえば、幸福な家庭において、それが運命的な必然によるものか、意志的な選択によるものかを悩むことはありません。形而上学的な起源ではなく、お互いの関係に集中するからこそ、今の幸福があるのです。重要なのは、自分が羊なのかそうでないのか、自分が属しているのか属していないのかを考えることです。 イエス様はここで、もう一つの本質的な関係について語られます。「わたしと父とは一つです 30」イエス様は、父なる神様との存在論的な一体性を語られました。人の子は人であり、神の子は神です。イエス様と神様の関係は、帰属の関係ではなく、存在論的な一体です。幸福な家庭が関係の中で幸福を得るように、イエス様もまた、神様との関係の中で幸福を得ています。そして、羊も牧者の中で幸福を得るのです。鶏が先か卵が先かを問わないように、羊飼いであるイエス様が羊について語られるときも、神の子であるイエス様が父なる神様について語られるときも、関係の中での安定と幸福をもって語られます。神様の選びなのか人間の意志なのかという問いは、それほど重要ではありません。今、神様との関係の中で幸福を感じている人は、改めて最初に戻り、その難しい問題を自分なりの方法で、自分の言葉で、自分の経験を通して解くことができるようになるでしょう。

요한복음 묵상 【존재는 관계 속에서 성립한다】 20250206(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 10:22~31 10:22 예루살렘에 수전절이 이르니 때는 겨울이라 10:23 예수께서 성전 안 솔로몬 행각에서 다니시니 10:24 유대인들이 에워싸고 가로되 당신이 언제까지나 우리 마음을 의혹케 하려나이까 그리스도여든 밝히 말하시오 하니 10:25 예수께서 대답하시되 내가 너희에게 말하였으되 믿지 아니하는도다 내가 내 아버지의 이름으로 행하는 일들이 나를 증거하는 것이어늘 10:26 너희가 내 양이 아니므로 믿지 아니하는도다 10:27 내…

ヨハネによる福音書 黙想 【わたしは良い牧者です】 20250205(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 10:11~21 10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。 10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。 10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。 10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。 10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。 10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」 10:19 これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。 10:20 彼らのうちの多くの人が言った。「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」 10:21 ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」   イエス様は良い羊飼いとして、ご自身の命を羊のために捨てると語られ、その反対の意味として雇い人を批判されました。雇い人(hireling)とは、全責任を負うことなく、決められた時間や限られた役割の中で働く雇われた者のことを指します。したがって、雇い人という言葉自体が悪い意味を持つわけではありません。しかし、ここでは責任を負わずに権利ばかりを求める人、つまり自分に利益がなく、損失や危険が伴うと羊を捨てて逃げるような人を指します。当時のユダヤの宗教は、民を守ることができるはずもありませんでした。 社会人にとって、報酬や利益は誰にとっても重要なものですが、すべてがそのような仕組みで動くわけではありません。子どもへの愛は、見返りがなくてもより多く注ごうと努力するのが、普通の親の心です。もし親が金銭を受け取り、決められた時間と限られた役割のみを果たし、それ以外の責任を負おうとしなかったら、人々はその人が本当に親であるのか疑うでしょう。オーナーシップを持つ人は、常に全体に対する関心を失うことはありません。使命感を持つ人は、その報酬や利益がどのようなものであれ、責任を果たそうとします。責任を負おうとしない時代だと言われていますが、家庭、教会、職場のすべての共同体は、今もなお使命感を持ち、責任を果たす人を求めています。 しかし、ヨハネによる福音書10章で語られている良い羊飼い、真の羊飼いとは、良い牧師や悪い牧師のことを指しているのではありません。人間は誰も、人間を対象に良い羊飼い(Good Shepherd)となることはできません。私たちの羊飼いは、ただイエス様だけです。良い牧師とは、良い羊飼いであるイエス様に従い、駆け回る羊飼い犬(Sheepdog)のような存在です。誰一人として、十字架を背負い、代わりに死ぬことができる羊飼いがいなかったからこそ、イエス様が来られたのです。イエス様は報酬を得るために来られたのではありません。使命を持ち、全責任を負うために来られました。私たちを救い、最後まで責任を負うのは、人間ではなくイエス様です。人がイエス様の声を聞くためには、必死の努力をしなければなりません。