요한복음 묵상 【말씀하신 그 때】 20250114(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 4:43~54 4:43 이틀이 지나매 예수께서 거기를 떠나 갈릴리로 가시며 4:44 친히 증거하시기를 선지자가 고향에서는 높임을 받지 못한다 하시고 4:45 갈릴리에 이르시매 갈릴리인들이 그를 영접하니 이는 자기들도 명절에 갔다가 예수께서 명절 중 예루살렘에서 하신 모든 일을 보았음이더라 4:46 예수께서 다시 갈릴리 가나에 이르시니 전에 물로 포도주를 만드신 곳이라 왕의 신하가 있어 그 아들이 가버나움에서 병들었더니…

ヨハネによる福音書 黙想 【正午の希望】 20250113(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 4:27~42 4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。 4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。 4:29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」 4:30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。 4:31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。 4:32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」 4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。 4:35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。 4:37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。 4:38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」 4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。 4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。 4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。 4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」 サマリアの女の物語は今日の本文で終わります。ヨハネの福音書4章が始まると同時に、イエス様とサマリアの女の出会いが描かれます。この女はずっと、イエス様に対して皮肉な態度を取り続けます。井戸のそばでイエス様は、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われました。本当に渇いていたのは旅の途中のイエス様ではなく、この世に心を寄せる場所がなかったサマリアの女でした。彼女は恥辱と苦労の人生を歩んでいました。エルサレムとサマリアは互いに嫌悪し合い、それぞれの誇りを守って生きていました。イエス様は、エルサレムでもサマリアでもない「御霊と真理による礼拝」について語られました。 その後に続くのが今日の本文です。女は水がめを置いて村に戻り、人々にイエス様について伝えました。人目を避けていた彼女は恥を忘れ、後先考えずに伝道者となりました。人々が集まり、食事を勧める弟子たちに対し、イエス様は「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と語られました。収穫の時が来ており、蒔く者と刈る者が共に報酬を受け、努力していない者も報いを受けると言われます。こんな秩序ってあるのでしょうか?因果応報を覆すような論理ですが、多くのサマリア人たちはその言葉を聞いて信じました。失敗し、疎外された人間に因果応報は責任を押しつけて死ねと言うだけではないでしょうか?しかし、救いとはそれでもなお「生きなさい」と語るものです。イエス様の説教こそが恵みの秩序であり、愛の論理です。 サマリアの女の物語は単なるエピソードではありません。それはまるで福音を凝縮した短編小説のようです。「サマリアの女」という言葉は、サマリアに住む女性を指す意味ですが、その中には含蓄的な意味があります。サマリアは疎外された土地であり、女はその中でもさらに疎外された存在でした。サマリア人は、北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされ、北方民族と混ざり合った混血の民族です。ヤコブの失われた子たち、忘れられた神の民です。この女は温かい家庭の幸せを味わったことのない不幸な女性でした。したがって、「サマリア」という名と「女」という名には重なり合う悲しみがあります。その女の名前さえ残っていないため、「サマリアの女」という名はさらに悲しいものです。 イエス様はその場所に来られました。正午に人目を避けていた穢れた女に会うために来られました。幾重にも積み重なった不幸と絶望に語りかけるために来られました。渇きを自覚させ、飢えを知らせ、渇くことのない生ける水と神の救いを成し遂げる糧を与えるために来られたのです。礼拝すべき場所はエルサレムでもサマリアでもありません。人間の内には正義がありません。明白な不正に怒りを覚えることはできても、正義を実現する力は誰にもありません。誰も善ではなく、何も正しくはありません。正しいと自負する人間は自分の不正を強調しているにすぎません。 哀れな罪人たちは、神に礼拝する時だけ義について考えることができます。だからこそ、罪人が礼拝に進むことができるようにイエス様が来られたのです。自分の力と努力で自ら這い上がることができないサマリア。そのようなサマリアの中でも軽蔑されるべき一人の女は、自分の実力や努力ではなく、救い主に出会いました。二度と渇かない生ける水を飲みました。誰にでもそうであるように、私にもそうであったように、それは枯れ果てた正午に予期せず出会った救いでした。渇きと飢え、恥辱と嘲笑で始まったヨハネの福音書4章という短編小説は、罪人を救う愛という最も正義にかなった物語で幕を閉じました。

요한복음 묵상 【정오의 희망곡】 20250113(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 4:27~42 4:27 이 때에 제자들이 돌아와서 예수께서 여자와 말씀하시는 것을 이상히 여겼으나 무엇을 구하시나이까 어찌하여 저와 말씀하시니이까 묻는 이가 없더라 4:28 여자가 물동이를 버려두고 동네에 들어가서 사람들에게 이르되 4:29 나의 행한 모든 일을 내게 말한 사람을 와 보라 이는 그리스도가 아니냐 하니 4:30 저희가 동네에서 나와 예수께로 오더라 4:31 그 사이에 제자들이 청하여 가로되…

ヨハネの福音書 黙想 【井戸にある意図】 20250111(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 4:1-14 4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが── 4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。 4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。 4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。 4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。 4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」 4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」  誰も来るはずがない時間の井戸に、イエス様とあるサマリアの女が話をすることになりました。 ユダヤ人の時間で6 時は、私たちの時間で正午に近い時間です。 その最も暑いときに、サマリア人の女は井戸に水を汲みに来ていたのです。 ただ忙しくて、暇な時間ができて来ていたのではなく、この女は意図的に人々を避けて、この時間に井戸に来たのです。    そしてイエス様もやはり単純にガリラヤに行く途中に寄っていたことでも、たまたまそこを通り過ぎることになったわけではなく、明確な意図を持って、その井戸に向かっいました。 それは意図的に人々を避けていたこのサマリアの女と出会うため、そしてその女に永遠のいのちへの水を与えるためです。    このような神様の意図された出会いは、私たちの人生の中でも依然として行われています。 まさに私たちが隠したい罪と恥、罪の本性のところに訪ねてくるイエス様との出会いです。 イエス様は私たちがその罪を認識し、それに苦しんでいる時に、私たちと出会ってくださいます。 そのような罪から私たちを救うためにこの地に来られた方であるからです。    そのイエス様がどのようなお方なのか知らなかった時の私たちは、私たちの隠したいところに訪れてくるイエス様を追い出そうとし、拒否してしまいます。しかし、イエス様を知ってからは、むしろそこにイエス様を迎え、求めるようになります。 その問題から解放されるための唯一の道であるイエス様を、永遠のいのちへの水を求めるようになるのです。    この井戸での出会いはイエス様とサマリア人の女、ただ二人だけの時間でした。 いつもイエス様に付いて来ていた群れも、弟子たちもこの時間だけはそこにいませんでした。 その時間の中で、サマリアの女はイエス様という永遠のいのちへの水を受け入れることができたのです。この井戸にはそのような神様の意図があったのです。    教会という一つのからだ、共同体として共にイエス様に仕え、イエス様に向かって進みますが、その前、先に一人ひとりとしてイエス様に出会わなければなりません。 共同体が一人の人がイエス様に進むように助けることはできますが、その場所まで一緒に付いて行くことはできません。イエス様は一対一でその人との出会いを待っておられるためです。そのイエス様に会いに行く場所は私たちの罪、私たちの弱さと恥で自らは進んで行きたくない場所です。しかし、て私たちはそこに進んでから初めて、イエス様による自由を経験することになります。 https://youtu.be/V0M1OKDUoRs?si=ZfgpOHsjX5Arn6f8

요한복음 묵상 【우물가의 만남】 20250111(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 4:1-14 4:1 예수께서 제자를 삼고 세례를 베푸시는 것이 요한보다 많다 하는 말을 바리새인들이 들은 줄을 주께서 아신지라 4:2 (예수께서 친히 세례를 베푸신 것이 아니요 제자들이 베푼 것이라) 4:3 유대를 떠나사 다시 갈릴리로 가실새 4:4 사마리아를 통과하여야 하겠는지라 4:5 사마리아에 있는 수가라 하는 동네에 이르시니 야곱이 그 아들 요셉에게 준 땅이 가깝고 4:6 거기 또…

ヨハネの福音書 黙想 【同じ目標、同じ道】 20250110(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 3:22-36 3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 3:23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。 3:24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。 3:25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。 3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」 3:27 ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。 3:28 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。 3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。 3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」 3:31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 3:32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 3:33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。 3:34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。 3:35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。    今日の箇所の始まりは、イエス様とバプテスマのヨハネのバプテスマが近くで授けられていた姿を私たちに見せることから始まっています。 そして、このことについて、バプテスマのヨハネのある弟子は、それがまるで競争相手が向こう側にいるように考え、バプテスマのヨハネにそのことについて語る姿を一緒に見ることができます。 しかし、バプテスマのヨハネの反応は、その弟子が考えていたものとは違いました。  自分は衰えなければならない、あの方は盛んにならなければならないということ、むしろそれが自分の喜びであるというのがバプテスマのヨハネの告白でした。 ヨハネにとってイエス様は競争相手ではなく、むしろ自分が今まで用意し、待っていた方が、自分と同じ目標を持ち、その目標を完全に成し遂げてくださる方がイエス様であったためです。  世の中には同じ目標を持っているにもかかわらず、互いに対立し、分裂してしまうことが多くあります。 そのようなことがなぜ起こるのか、その理由は、目標は同じであっても、目標に到達するまでの道と方法はそれぞれであるからです。 しかし、もし目標に到達するまでの方法がたった一つだけだとしたら、そのことをお互い知っているならば、分裂は起きないでしょう。  バプテスマのヨハネとイエス様がまさにそのような関係でした。 すべての民が悔い改め、救いに至ること、ただそれだけのためにバプテスマのヨハネはバプテスマを授け、イエス様が来られる道を用意してきました。 そして、やがてそのことを完全に成し遂げるためにイエス・キリストがこの地に来られたのです。 バプテスマのヨハネとイエス様はこのように同じ目標を持っていました。  私たちが御言葉を通して知っているように、人の救いという目標に到達できる道は、ただイエス・·キリストだけです。 そしてバプテスマのヨハネもこの事実を知っていました。だからこそ、むしろ自分が衰えることがその目標に至るためのものであることを知り、それを喜んでいたのです。  この世にある聖徒たちも同じ目標を持っています。 それは救いという目標です。 そして、その救いに至る道は今もなお、これからも変わることなくイエス・·キリストだけです。 そのため、私たちは考え方、やり方、一人ひとりの背景など、すべてが違っても一つになることができます。 私たちの道はイエス·・キリストだけであるからです。 https://youtu.be/yITZ4lPLfGk?si=yUP5OPssDwU7pwdi

요한복음 묵상 【같은 목표, 같은 방법】 20250110(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 3:22-36 3:22 그 후에 예수께서 제자들과 유대 땅으로 가서 거기 함께 유하시며 세례를 베푸시더라 3:23 요한도 살렘 가까운 에논에서 세례를 베푸니 거기 물이 많음이라 그러므로 사람들이 와서 세례를 받더라 3:24 요한이 아직 옥에 갇히지 아니하였더라 3:25 이에 요한의 제자 중에서 한 유대인과 더불어 정결예식에 대하여 변론이 되었더니 3:26 그들이 요한에게 가서 이르되 랍비여 선생님과…

ヨハネによる福音書 黙想 【実に、世を愛された】 20250109(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 3:10~21 3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。 3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。 3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。 3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。 3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。 3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。 3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。   ニコデモがイエス様を訪ねたのは、人々の目を気にするようなことではありませんでした。彼はその中に確かに真理があると考えていたからです。生まれ変わるのは、律法からの生まれ変わるのであり、世間の目や評価から生まれ変わりです。肉が水に沈んで死に、霊によって再び生きることです。人間の考えではなく、聖霊の思いをすることが生まれ変わりです。 少し叱られた後、ニコデモはイエス様から福音の個人レッスンを受けます。パリサイ派であり、律法の教師であるニコデモにとって、よく知っている青銅の蛇の話です。出エジプトの荒野で反逆した人々が炎の蛇に苦しめられたとき、救いの条件として天高く掲げられたのは青銅の蛇でした。救いを得たのは、青銅の蛇を作った人でも、それを掲げた人でもなく、それをただ見上げただけの人でした。 私たちは不思議に思います。出エジプトの民はなぜそんなに簡単なことをしなかったのか?見るだけで命を得られるというのに、なぜそれさえもしなかったのか?それは、十字架に高く掲げられたイエスの名を信じるだけで救われると告げられても信じない、あの多くの人々に問いかけるべきことです。 イエス様は青銅の蛇の原理を語られた後、世を救うために掲げられる独り子についてお話しされます。青銅の蛇は出エジプトの民を救いましたが、十字架は世界とそのすべての人々を救うのです。続く言葉が「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16」です。 イエス様とニコデモの対話は21節まで続きますから、16節はイエス様がニコデモに教えられた福音です。ニコデモは確かに教えられました。後に人々の目が恐ろしくて夜間に動いていたニコデモは、同じくユダヤ人が恐ろしくて隠れていたアリマタヤのヨセフとともに、イエス様を葬ります。光に従う者は光によって明らかにされるのです。

요한복음 묵상 【세상을 이처럼 사랑하사】 20250109(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 3:10~21 3:10 예수께서 가라사대 너는 이스라엘의 선생으로서 이러한 일을 알지 못하느냐 3:11 진실로 진실로 네게 이르노니 우리 아는 것을 말하고 본 것을 증거하노라 그러나 너희가 우리 증거를 받지 아니하는도다 3:12 내가 땅의 일을 말하여도 너희가 믿지 아니하거든 하물며 하늘 일을 말하면 어떻게 믿겠느냐 3:13 하늘에서 내려온 자 곧 인자 외에는 하늘에 올라간 자가 없느니라…

ヨハネによる福音書 黙想 【神殿カルテル】 20250107(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師  (복제)

ヨハネによる福音書 3:1~9 3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。 3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」 3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」 3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」   パリサイ派の中に「ニコデモ」という人物がいました。彼はサンヘドリン(ユダヤの最高議会)の議員であり、ユダヤ人社会のエリートでした。その彼が夜にイエス様を訪ねて会話を交わします。夜に訪れた理由は、人目に触れず、こっそりと会うためでした。人々の目を気にしながらも、ニコデモはどうしてもイエス様と話をしたかったのでしょう。それは、イエス様が行われた数々の奇跡を通して、イエス様が神から遣わされたお方であることを認めていたからです。 しかし、イエス様は目に見える不思議な出来事ではなく、目に見えない霊的な奥義について語られます。イエス様は、「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われています。ニコデモはそれを理解できず、肉体的な観点から質問を繰り返しますが、イエス様は霊的な新生の本質についてのみ語られます。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。ヨハネ3:6-7」 しかし、8節の解釈は少し難しいです。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。ヨハネ3:8」 ここで、「御霊によって生まれた者」とは、「思いのままに吹く風のような存在」を指しているのでしょうか。それとも、「どこから来て、どこへ行くのか分からない存在」を指しているのでしょうか。この解釈によって意味が変わります。 韓国語や日本語では曖昧に感じられる部分ですが、英語の翻訳やギリシャ語の原文を参考にすると、「霊から生まれた人」は風の自由な性質と結びついています。そうであれば、8節の風の話は「神秘的な聖霊についての記述」ではなく、「新しく生まれ変わった人の自由さについての記述」と読むべきです。つまり、「聖霊についての描写」ではなく、「聖霊によって新しく生まれた人についての描写」なのです。「分からない」という意味ではなく、「自由である」という意味なのです。 ニコデモはその夜、イエス様から、自分の地位や周囲の目を気にして自由になれない自分自身を戒められたのです。このように読むことで、ヨハネ3章の後半に続く「地上のことと天のこと」や「青銅の蛇の話」、さらにはヨハネ3章16節の背景が自然につながります。8節はこのような意味ではないでしょうか。「風は何かに縛られることなく自由に吹きますが、人々はその風の始まりや終わり、その軌跡について知ることはできません。新しく生まれ変わり、霊から生まれた人は、風が吹くように自由な人になるのです。」