詩篇 エッセイ 【主の道が海の中にあった日】 20250618(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

詩篇 77:10~20 77:10 私はこう言った。「私が弱り果てたのはいと高き方の右の手が変わったからだ」と。 77:11 私は主のみわざを思い起こします。昔からのあなたの奇しいみわざを思い起こします。 77:12 私はあなたのなさったすべてのことを思い巡らしあなたのみわざを静かに考えます。 77:13 神よあなたの道は聖です。私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。 77:14 あなたは奇しいみわざを行われる神。国々の民の中で御力を現される方。 77:15 あなたは御腕をもって贖われました。ご自分の民ヤコブとヨセフの子らを。セラ 77:16 神よ水はあなたを見ました。水はあなたを見てわななきました。大いなる水も震え上がりました。 77:17 雨雲は水を注ぎ出し雷雲は雷をとどろかしあなたの矢もひらめき飛びました。 77:18 あなたの雷の声は戦車のように鳴り稲妻は世界を照らし地は震え揺れ動きました。 77:19 あなたの道は海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。 77:20 あなたはモーセとアロンの手によってご自分の民を羊の群れのように導かれました。   苦痛と絶望のただ中で、神を求めながらも、心は混乱と不安に包まれる。まるで神が遠くにおられるような現実の中で、詩人は過去に体験した神の恵みを思い起こそうとする。しかし、それは単なる“昔がよかった”という感傷的な嘆きではない。記憶を手がかりに、現在を解釈し、未来に希望をつなぐ信仰的物語なのだ。この詩篇を通じて私たちは、「記憶の霊性」と「振り返ることによる神学的解釈」という胸躍るテーマに出会う。まるで泥に埋もれた真珠を見つけ出すように、自らの過去から輝く輝石を取り出し、丁寧に磨きあげるような喜びがある。 よく考えてみれば、神が行われた不思議な業、救いの業、海を分けたあの日も鮮やかに浮かんでくる。詩人は出エジプトの記憶を払い起こし、「主の道は海にあった」と告白する。あの日、紅海を渡った人々は混乱し、すぐに空腹になり、喉が渇いて不満を口にした。そしてその時は、ただ「水を飲めてよかった」「マナが美味しかった」程度にしか思っていなかった。しかし時間が経ち、振り返ってみれば、確かに海の中に道があり、神がその道を共に歩まれたことに気づく。記憶とは、信仰を回復するだけでなく、その意味を解き明かすための道具でもあるのだ。世界の泥水に足を取られた時も、信仰者は自らの内にある“真珠”を探し出し、それによって喜び、自分の崇高なアイデンティティを確認できる。 私自身も、人生の重要な分岐点で神に出会った証をする時、涙を堪えることができない。いつも意識して声を出そうとしても、語り終えるころには涙が込み上げ、その理由もわからないまま、口元が震える。証しを重ねるほど、鈍感になるのではなく、本当に真実なことを語れば語るほど、その意味はますます鮮やかになり、真珠の輝きが増すように感じる。これは、自分自身を磨いて鍛えるプロセスでもある。詩人による出エジプトの歴史観も、単なる年代記の羅列ではなく、神の痕跡を探し求める解釈の営みである。 現代の信仰教育において、私たちは「評価」というプロセスがないことに気づいているだろうか。本来、すべての教育には評価が伴う。レポートを書き、試験を受け、発表をし、論文を書く。それをクリアして初めて履修と認められる。だが劣悪な教育ほど評価を省略する。一方、教会の信仰教育には評価がない。そのため、長い間聖書を学んでも「書く・語る」が欠けている。自分の言葉で語り、文章としてまとめないため、信仰が構造化されないのだ。聖書勉強会に参加し、伝道者、リーダーシップ訓練を受けても、自分でまとめないと消化されない。つまり「履修した」ですらない。学校ではレポートを書かせ、試験をさせ、プレゼンをさせ、ディスカッションさせ、論文を書かせる。その経験なしには「何を学んだのか」「何を理解したのか」はわからない。生徒は書くことによって成長するが、信仰者は書かないがために、「自分は何を信じているのか」もわからないまま過ごしてしまう。 一生祈っているのに、人前で整理された祈りをできないと自分を責める人がいる。それは霊性や話術の問題ではない。自分の祈りを書いてみたことがないからだ。自分の祈りを録音して後で聞いてみれば、無駄な言葉や意味不明な言葉が多いことに気づくだろう。それはイエス様が「くどくどと祈るな(重言附言)」と言ったそのものなのだ。決まった信仰告白を復唱することには慣れていても、自分の言葉で神に語りかける方法は学んでいない。信仰者の人生には神の痕跡が溢れているのが当然なのに、「特別な証しはない」と言う人がいる。それでも信じていることが不思議なほどだ。 証しがないのではない。振り返って記憶せず、記録せず、記念しなかっただけだ。人生の出来事を解釈し、そこに意味を見出さなかったからだ。つまり、「黙想しなかった」ということだ。信仰の混乱を文章にしたことがないから、「神と歩んだ人生」という構造が残らない。感情に流されて祈るよりも、各自が書いた祈りを朗読し、分かち合う練習が、より深い信仰の密度を生むと私は信じる。聞くより語ること、読むより書くことの方がずっと重要だ。アウトプットしなければインプットは保たれない。出エジプト記を書いたモーセがいたから旧約聖書が与えられ、書き残したパウロがいたから新約の大部分が残った。記録しない人は記憶しない人であり、記憶しない人は神を自ら消していく人である。  

시편 에세이 【주의 길이 바다에 있던 날】 20250619(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 77:10~20 77:10 또 내가 말하기를 이는 나의 연약함이라 지존자의 오른손의 해 77:11 곧 여호와의 옛적 기사를 기억하여 그 행하신 일을 진술하리이다 77:12 또 주의 모든 일을 묵상하며 주의 행사를 깊이 생각하리이다 77:13 하나님이여 주의 도는 극히 거룩하시오니 하나님과 같이 큰 신이 누구오니이까 77:14 주는 기사를 행하신 하나님이시라 민족들 중에 주의 능력을 알리시고 77:15 주의…

詩篇 黙想 【絶対性原理】 20250618(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 77:1~9 77:1 私は神に声をあげて叫ぶ。私が神に声をあげると神は聞いてくださる。 77:2 苦難の日に私は主を求め夜もすがらたゆまず手を差し伸ばした。けれども私のたましいは慰めを拒んだ。 77:3 神を思い起こして私は嘆き悲しむ。思いを潜めて私の霊は衰え果てる。セラ 77:4 あなたは私のまぶたを閉じさせません。私の心は乱れてもの言うこともできません。 77:5 私は昔の日々遠い昔の年月について考えました。 77:6 夜には私の歌を思い起こし自分の心と語り合い私の霊は探り求めます。 77:7 「主はいつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。 77:8 主の恵みはとこしえに尽き果てたのか。約束のことばは永久に絶えたのか。 77:9 神はいつくしみを忘れられたのか。怒ってあわれみを閉ざされたのか。」セラ     苦難の中、夜通し嘆きながら祈っても、神からの慰めを得ることができず、心はかえって混乱に陥ります。かつて神から受けた恵みを思い出そうとしても、それが現在の状況とあまりにもかけ離れていて、むしろ心はさらに苦しくなります。神はもはや私を愛しておられないのか、交わした約束を忘れてしまわれたのか、今の神は以前のように誠実ではないのか――疑念と混乱だけが深まっていきます。過去の恵みと今の苦しみの対比があまりにも鮮明で、まるで神が変わってしまわれたかのように感じるのです。 しかし、それは現実ではなく、「相対的な知覚」の問題なのかもしれません。観察者の位置や速度によって、時間や空間の経験が変化するというのが相対性理論です。信仰の認識も、立つ場所や視点のスピードによって誤解や歪みが生じることがあります。神が変わられたのではなく、苦難という状況が精神と肉体を圧迫し、神を認識する感覚が変化しただけなのです。暗闇の中にいるかもしれませんが、光が消えたわけではありません。ただ閉ざされた視野の中で、一時的にその光が見えないだけなのです。 新約時代にも、ユダヤ人キリスト者たちは信仰の混乱や迫害、律法への回帰という誘惑に直面し、神の愛を疑う者がいました。そんな彼らに、へブル人への手紙は神の不変性を力強く語ります。「エス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。へブル人への手紙13:8」ヘ信仰の中心と根は、変わらぬ神の性質と契約を疑わないことにあります。感情は主観的で、状況は流動的ですが、神の誠実さは決して変わりません。人の言葉や状況に左右される心をしっかりと保ってこそ、神を信じることができるのです。 状況に揺さぶられる認識の相対性を乗り越える力――それが信仰です。中心も基準も持たない人間は、状況に応じて変わってしまいます。しかし、変わりゆくこの世界の中で、変わらぬ神の御言葉を中心に据えて生きる者の信仰は揺るぎません。観察者の立場によって現実が異なって見える相対性を超えて、神の視点から自分と世界を見直す「認識の転換」が必要なのです。状況も人間も変わります。しかし、信仰とは神のもとへと何度でも立ち返る旅なのです。詩篇77篇の混乱の叫びも、やがて変わらぬ神への賛美と信頼へと帰っていくことでしょう。  

시편 묵상 【절대성 원리】 20250618(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 77:1~9 77:1 내가 내 음성으로 하나님께 부르짖으리니 하나님께 내 음성으로 부르짖으면 내게 귀를 기울이시리로다 77:2 나의 환난날에 내가 주를 찾았으며 밤에는 내 손을 들고 거두지 아니하였으며 내 영혼이 위로 받기를 거절하였도다 77:3 내가 하나님을 생각하고 불안하여 근심하니 내 심령이 상하도다 (셀라) 77:4 주께서 나로 눈을 붙이지 못하게 하시니 내가 괴로워 말할 수 없나이다 77:5…

詩篇 黙想 【高慢の正体】 20250617(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 76:1~12 76:1 神はユダにご自分を示される。イスラエルにその御名の偉大さを。 76:2 その仮庵はサレムにその住まいはシオンにある。 76:3 神はそこで弓の火矢を砕かれる。盾と剣も戦いも。セラ 76:4 あなたは輝かしく獲物で満ちる山々にまさって威厳があります。 76:5 剛胆な者たちは略奪され深い眠りに陥りました。どの勇士たちにも手の施しようがありませんでした。 76:6 ヤコブの神よあなたが叱りつけると戦車も馬も倒れ伏しました。 76:7 あなたは実にあなたは恐ろしい方。お怒りになればだれが御前に立てるでしょう。 76:8 天からあなたの宣告が聞こえると地は恐れて沈黙しました。 76:9 神がさばきのために地のすべての貧しい者たちを救うために立ち上がられたそのときに。セラ 76:10 まことに人の憤りまでもがあなたをたたえあなたはあふれ出た憤りを身に帯びられます。 76:11 あなたがたの神主に誓いを立てそれを果たせ。主の周りにいる者はみな恐るべき方に贈り物を献げよ。 76:12 主は君主たちの霊を刈り取られる。地の王たちにとって恐るべき方。   詩篇76篇において、神はシオンに臨在される栄光の王であり、人間の戦いをやめさせる平和の主権者であり、高慢な者を砕く義の裁き主です。これは救いの神を賛美する詩であると同時に、すべての人が神の御前に立つときの畏れを抱くべきことを告げる、緊張感ある宣言でもあります。ここで私たちは、恐れをもって「誰が高慢な者なのか」「どのような人が高慢なのか」と自らに問いかけなければなりません。 では、高慢な人とはどのような人なのでしょうか?無礼で偉そうに振る舞い、自慢ばかりする人は、もしかするとただ未熟なだけで、本当の意味での「高慢な人」ではないかもしれません。むしろ高慢な人は、礼儀正しく、丁寧で、マナーをわきまえている可能性が高いのです。謙遜に見える言動こそ、高慢な人々が巧みに使うテクニックでもあるからです。謙遜を装った高度な高慢――それは人間が演出する宗教的・道徳的な仮面の中でも、最も精巧なものです。表に現れる態度だけでは、謙遜と高慢を見分けることはできません。 高慢とは、はるかに本質的で根源的なものであり、神を信じていようがいまいが、自分の立場、自分の分、人間の限界や虚しさを理解していない状態、すなわち、自分が被造物であることを忘れ、創造主の主権を侵そうとする内なる愚かさのことです。高慢な者は、自分の存在が依存的であることを知りません。知ろうともしません。こうした人々は、自分より劣っていると見なした他者を見下し、差別します。だからこそ、高慢と愚かさは一体なのです。 高慢な人は、神を知らないゆえに自分自身のことも分かりません。一方で謙遜な人は、神を畏れることにより、自分が何者であるかを知る人です。詩篇に一貫して登場する「悪しき者」、すなわち高慢な人間とは、自分の存在を神の御前に置こうとしない者、神を否定して生きるすべての人のことです。人が自分の最善と思っていた武器を手放し、自慢したかった舌を止め、神を認めるとき、ようやく謙遜が始まるのです。  

시편 묵상 【교만의 정체】 20250617(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 76:1~12 76:1 하나님이 유다에 알린 바 되셨으며 그 이름은 이스라엘에 크시도다 76:2 그 장막이 또한 살렘에 있음이여 그 처소는 시온에 있도다 76:3 거기서 저가 화살과 방패와 칼과 전쟁을 깨치시도다(셀라) 76:4 주는 영화로우시며 약탈한 산에서 존귀하시도다 76:5 마음이 강한 자는 탈취를 당하여 자기 잠을 자고 장사는 자기 손을 놀리지 못하도다 76:6 야곱의 하나님이여 주께서 꾸짖으시매…

詩篇 黙想 【存在しない悪者】 20250616(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 75:1~10 75:1 私たちはあなたに感謝します。神よ私たちは感謝します。あなたの御名は近くにありあなたの奇しいみわざが語り告げられています。 75:2 「わたしが定めの時を決めわたし自ら公正にさばく。 75:3 地とそこに住むすべての者が揺らぐときわたしが地の柱を堅く立てる。セラ 75:4 わたしは誇る者には『誇るな』と言い悪者どもには『角を上げるな。 75:5 おまえたちの角を高く上げるな。横柄な態度で語るな』と言う。」 75:6 高く上げることは東からでもなく西からでもなく荒野からでもない。 75:7 まことに神こそさばき主。ある者を低くしある者を高く上げられる。 75:8 主の御手には杯があり混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。主がこれを注ぎ出されると実にすべて地の悪者どもはそれを飲みかすまで飲み干す。 75:9 しかし私はとこしえまでもみわざを告げます。ヤコブの神にほめ歌を歌います。 75:10 私は悪者どもの角をことごとく切り捨てます。正しい者の角は高く上げられます。   詩篇75篇は、神の義と主権を宣言し、神が定めた時に高ぶる者を砕き、正しい者を高くされると語っています。しかし、問題は、多くの読者がこの詩篇を読むとき、自分自身を当然のように「義人」の立場に置いてしまうことです。「誰が悪人なのか?」という問いがありません。この無意識の前提こそが、詩篇の言葉を私たち自身にとって生きた神の言葉にさせない原因なのです。 神の裁きは常に「彼ら」に向けられているかのように読まれ、読者はその裁きとは関係のない安全地帯にいるかのように振る舞います。まるで正義を語っているかのようで、実は怒りと裁きの感情が他者に向けられているだけなのです。「角を誇るな」「傲慢な首を振りかざすな」といった神の言葉さえも、自分が憎む誰かに当てはめてしまい、自分には適用しようとしません。そうやって私たちは、正直に詩篇を読んだことがあるでしょうか。 この詩篇は確かに鋭い武器になり得ますが、それは他人を刺す剣ではなく、自分自身を打ち砕く斧であるべきです。神の裁きは、外にいる誰かへのものではなく、神の前に立つ自分自身の高慢さと自己義に向けられたものなのです。初めから義人と悪人を明確に分ける二元論自体が、そもそも成り立たないのです。すべての人間は、絶対的な義人でも、絶対的な悪人でもありません。悪人は、鏡の中に生きています。 今日の黙想の題を「存在しない悪者」としたのは、悪人がこの世から消えたという意味ではなく、誰もが自分を義人と考えるために、悪人が“見えなくなっている”という霊的な矛盾を皮肉ったものです。詩篇を読むとき、他人を断罪し呪うための言葉ではなく、自らの心を正直に見つめ直す哀歌として読む必要があるのではないでしょうか。もし、自分の立場を転倒させることに少しでも成功したなら、もう一度詩篇75篇を読んでみてください。

시편 묵상 【존재하지 않는 악인】 20250616(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 75:1~10 75:1 하나님이여 우리가 주께 감사하고 감사함은 주의 이름이 가까움이라 사람들이 주의 기사를 전파하나이다 75:2 주의 말씀이 내가 정한 기약을 당하면 정의로 판단하리니 75:3 땅의 기둥은 내가 세웠거니와 땅과 그 모든 거민이 소멸되리라 하시도다(셀라) 75:4 내가 오만한 자더러 오만히 행치말라 하며 행악자더러 뿔을 들지말라 하였노니 75:5 너희 뿔을 높이 들지 말며 교만한 목으로 말하지…

시편 묵상 【존재하지 않는 악인】 20250616(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

詩篇73:1—14 73:1 하나님이 참으로 이스라엘 중 마음이 정결한 자에게 선을 행하시나 73:2 나는 거의 실족할뻔 하였고 내 걸음이 미끄러질뻔 하였으니 73:3 이는 내가 악인의 형통함을 보고 오만한 자를 질시 하였음이로다 73:4 저희는 죽는 때에도 고통이 없고 그 힘이 건강하며 73:5 타인과 같은 고난이 없고 타인과 같은 재앙도 없나니 73:6 그러므로 교만이 저희 목걸이요 강포가 저희의…

詩編 黙想【万が一の話】20250614(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 74:1-11 74:0 アサフのマスキール。 74:1 神よなぜいつまでも拒み御怒りをあなたの牧場の羊に燃やされるのですか。 74:2 どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られゆずりの民として贖われたあなたの会衆を。あなたの住まいであるシオンの山を。 74:3 あなたの足を永遠の廃墟に踏み入れてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。 74:4 あなたに敵対する者どもはあなたの聖なる所でほえたけり自分たちのしるしをそこに掲げています。 74:5 あたかも木の茂みの中で斧を高く振り上げる者のようです。 74:6 今や彼らは手斧と槌で聖所の彫り物をことごとく打ち砕き 74:7 あなたの聖所に火を放ちあなたの御名の住まいをその地まで汚しました。 74:8 彼らは心の中で「彼らをことごとく征服しよう」と言い国中の神の聖所をみな焼き払いました。 74:9 もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も私たちの間にはいません。 74:10 神よいつまではむかう者はそしるのですか。敵は永久に御名を侮るのですか。 74:11 なぜあなたは御手を右の御手を引いておられるのですか。その手を懐から出して彼らを滅ぼし尽くしてください。    詩篇74篇は、詩編の中でも「アサフのマスキール(教訓の詩)」という独特なジャンルの詩篇です。この「マスキール」とは、ある種の教訓や悟りを意味すると知られています。では、今日の箇所においてアサフは、どのような教訓や悟りを私たちに伝えているのでしょうか。  現代に生きる私たちにとって、今日の箇所の内容は、受け入れがたく、不快にまで感じられるかもしれません。神様がご自身の民をいつまでも拒み、彼らに向かって怒りを注がれ、神様の聖所は敵によって汚され、破壊され、侮られるという姿は、私たちにとって想像したくもない、到底考えられない姿です。  しかし、このような姿は決してありえないものではありません。むしろ本来であれば、当然起こるはずのものでした。神様の民の罪、この世のすべての人々の罪によって引き起こされるべき裁きの姿であり、罪が私たちに対して勝利する姿なのです。  ではなぜ、私たちはこのようなことが想像すらできなくなってしまったのでしょうか。それは、神様がこのすべての出来事が起こらないようにするため、イエス・キリストをこの地に送ってくださったからです。  イエス様はこの地に来られ、私たちの罪の代価を払ってくださいました。言い換えれば、今日の箇所に描かれているすべてのことを、イエス様が代わりに担ってくださったと言えます。私たちが想像することすらできず、想像したくもないようなことを、イエス様は実際に、ご自分の身に受けられたのです。  万が一の話、この地にイエス様が来られなかったとしたら、神様がその民を罪に応じて裁くと決められたならば、この詩篇に描かれていることは、私たち自身が受けなければならなかったことでしょう。アサフが伝えている教訓は、空想の物語ではなく、本来私たちに起こるはずだったことへの警告だったのです。  だからこそ、私たちもこの詩を通して、自分たちに与えられた恵みがどれほど尊いものか、そしてその尊いものを惜しまなく与えてくださった神様の恵みがどれほど大きなものかを知り、そのことを通して私たちの感謝がますます深まっていくのです。 https://youtu.be/0ta5dCwn3ZE?si=yPgshll1JG_BVMJu