시편 묵상【만약에】20250614(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 74:1-11 74:1 하나님이여 주께서 어찌하여 우리를 영원히 버리시나이까 어찌하여 주께서 기르시는 양을 향하여 진노의 연기를 뿜으시나이까 74:2 옛적부터 얻으시고 속량하사 주의 기업의 지파로 삼으신 주의 회중을 기억하시며 주께서 계시던 시온 산도 생각하소서 74:3 영구히 파멸된 곳을 향하여 주의 발을 옳겨 놓으소서 원수가 성소에서 모든 악을 행하였나이다 74:4 주의 대적이 주의 회중 가운데에서 떠들며 자기들의…

詩編 黙想【正しい嫉妬】20250613(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 73:15-28 73:15 もしも私が「このままを語ろう」と言っていたならきっと私はあなたの子らの世代を裏切っていたことだろう。 73:16 私はこのことを理解しようとしたがそれは私の目には苦役であった。 73:17 ついに私は神の聖所に入って彼らの最期を悟った。 73:18 まことにあなたは彼らを滑りやすい所に置き彼らを滅びに突き落とされます。 73:19 ああ彼らは瞬く間に滅ぼされ突然の恐怖で滅ぼし尽くされます。 73:20 目覚めの夢のように主よあなたが目を覚ますとき彼らの姿を蔑まれます。 73:21 私の心が苦みに満ち私の内なる思いが突き刺されたとき 73:22 私は愚かで考えもなくあなたの前で獣のようでした。 73:23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。 73:24 あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。 73:25 あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません。 73:26 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。 73:27 見よあなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き不実を行う者をあなたはみな滅ぼされます。 73:28 しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。     詩人は、悪人たちが栄えている姿を見て羨ましく思い、妬んでいた自分自身の姿を振り返り、そのような自分がどれほど愚かであったか、また神様がその悪人たちをどのように取り扱われるのかを、神様の前で悟るようになります。      自分こそがいつも滑りやすい場所に置かれているように思えましたが、実は神様は悪人たちを常に滑りやすいところに置かれており、自分が貧しく滅びていくかのように見えていたものの、実際には悪人たちが荒廃していく――そのような神様の裁きの姿が、昨日の本文で詩人が羨ましく思っていたものが、実は神様の裁きに向かって進んでいた悪人たちの姿だったということを対比しながら示しています。      私たちが何かを羨ましく思ったり妬んだりするのは、それが自分の目に良いものに見えたからです。望んでもいない、良くも思えないものを持っている人を私たちは羨んだり妬んだりはしません。しかし、自分の目に良く見えるものが、神様の目にも良いものなのかどうか、私たちは常に御言葉を通して確かめなければなりません。人々がこの事実を忘れ、自分の目に良いと思えるままに生きていた時代――その時こそが、イスラエルが最も堕落していた時代と呼ばれる「士師記の時代」の姿であることを、聖書は士師記の最後の部分を通して語っています。      私たちが何かを妬むということは、それをそれだけ強く望んでいるということでもあります。言葉の響きはあまり良くないかもしれませんが、御言葉が示している通り、妬みという感情は私たちにとって自然な感情であり、妬まれる神様から受けた感情でもあります。けれども、その妬みの向かう方向がどこなのかが重要です。      神様は、偶像を拝む民に向かって「わたしは、ねたみの神。」と語られ、その民が偶像を拝まないことを願われました。私たちもそのような神様の妬みに応えるかたちで、自分よりも熱心に神様を愛する人の信仰に妬みを感じ、私もそのように神様を愛したいと願うこと――それこそが、私たちの妬みが向かうべき方向であり、それが神様に近づくことであり、自分にとって良いことであり、そのことを通して神様を証しすることになるのです。 https://youtu.be/sgYgHSJP-q8?si=shTs_jWwrw7rtCI4

시편 묵상【올바른 질투】20250613(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 73:15-28 73:15 내가 만일 스스로 이르기를 내가 그들처럼 말하리라 하였더라면 나는 주의 아들들의 세대에 대하여 악행을 행하였으리이다 73:16 내가 어쩌면 이를 알까 하여 생각한즉 그것이 내게 심한 고통이 되었더니 73:17 하나님의 성소에 들어갈 때에야 그들의 종말을 내가 깨달았나이다 73:18 주께서 참으로 그들을 미끄러운 곳에 두시며 파멸에 던지시니 73:19 그들이 어찌하여 그리 갑자기 황폐되었는가 놀랄…

詩篇 黙想 【この世の不条理の前で】 20250612(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 73:1~14 73:1 まことに神はいつくしみ深い。イスラエルに心の清らかな人たちに。 73:2 けれどもこの私は足がつまずきそうで私の歩みは滑りかけた。 73:3 それは私が悪しき者が栄えるのを見て誇り高ぶる者をねたんだからだ。 73:4 実に彼らの死には苦痛がなく彼らのからだは肥えている。 73:5 人が苦労するときに彼らはそうではなくほかの人のように打たれることもない。 73:6 それゆえ高慢が彼らの首飾りとなり暴虐の衣が彼らをおおっている。 73:7 彼らの目は脂肪でふくらみ心の思い描くものがあふれ出る。 73:8 彼らは嘲り悪意をもって語り高い所から虐げを言う。 73:9 彼らは口を天に据えその舌は地を行き巡る。 73:10 それゆえこの民はここに帰り豊かな水は彼らに汲み尽くされる。 73:11 そして彼らは言う。「どうして神が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。」 73:12 見よこれが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで富を増している。 73:13 ただ空しく私は自分の心を清め手を洗って自分を汚れなしとした。 73:14 私は休みなく打たれ朝ごとに懲らしめを受けた。 詩人は「神様は心の清い者に恵みを与えられる」との告白から詩篇第73篇を始めています。私たちの言葉で言えば、「神様は善なるお方です」と教会で学び、そう信じてきたということです。しかし、現実の不条理とぶつかると、その信仰に疑いが生じます。高慢で力を振るう悪者は栄え、平安に暮らしているのに対し、信仰を持って生きようとする者は苦難と痛みの中で日々を送っています。この隔たりの中で、詩人は混乱に陥り、信仰への疑念を抱くようになります。「足が滑りそうになった」と告白し、神様を信じるということが現実の中では説明のつかないことであると率直に語るのです。 私はこの詩を読むとき、「もし神様が善であられるなら、なぜ悪が存在するのか?」という古典的な神義論にはあまり関心がありませんでした。むしろ、詩人の心と考えがどこから始まり、どこへと向かっていくのか、その内面の旅路に注目しました。この詩の核心は、「なぜ正しい者が苦しみ、悪しき者が栄えるのか」という問いそのものの答えではありません。神様の視点と人間の視点は異なります。重要なのは、理解できない現実の中でも問いと祈りの糸を手放さない姿勢です。私たちは神様の前で自らの混乱を隠すべきではなく、理不尽な出来事を神様に訴えるべきなのです。そうすべきなのです。 詩人の嘆きは、自分中心の告白から始まりますが、それは神様との関係を断ち切るものではなく、むしろその関係をつなぎとめる手段となります。この自分中心の告白を超えていく出発点は、神様の御前で自分の感情と疑問を隠さない正直さです。どこか別の場所で神様を責めるのではなく、神様の御前に出て、神様に向かって叫ぶべきです。理解できない出来事は依然として残りますが、それでも神様に問い、求め、その御前に立とうとする姿勢――それこそが詩篇第73篇が示す真の信仰の核心です。この詩が語るのは、世の中の不条理と神様への理解の間で生じる真剣な葛藤が、やがて神様の視点に降伏し、それが信仰の告白となっていくということです。

시편 묵상 【세상의 부조리 앞에서】 20250612(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

詩篇73:1—14 73:1 하나님이 참으로 이스라엘 중 마음이 정결한 자에게 선을 행하시나 73:2 나는 거의 실족할뻔 하였고 내 걸음이 미끄러질뻔 하였으니 73:3 이는 내가 악인의 형통함을 보고 오만한 자를 질시 하였음이로다 73:4 저희는 죽는 때에도 고통이 없고 그 힘이 건강하며 73:5 타인과 같은 고난이 없고 타인과 같은 재앙도 없나니 73:6 그러므로 교만이 저희 목걸이요 강포가 저희의…

民数記 黙想 【民数記が残した余韻】 20250611(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

民数記 36:1~13 36:1 ヨセフ族の一つの氏族、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する一族のかしらたちが進み出て、モーセと、イスラエルの子らの一族のかしらである家長たちの前でこう語った。 36:2 「主は、くじによってあの地をイスラエルの子らに相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を彼の娘たちに与えるように、あなたは主によって命じられています。 36:3 もし彼女たちが、イスラエルの子らのうちのほかの部族の息子に嫁いだなら、彼女たちの相続地は、私たちの先祖の相続地から差し引かれて、彼女たちが嫁ぐ部族の相続地に加えられるでしょう。その結果、私たちが相続する割り当て地は減ることになります。 36:4 イスラエルの子らにヨベルの年が来れば、彼女たちの相続地は、彼女たちが嫁ぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの先祖の部族の相続地から取り去られることになります。」 36:5 そこでモーセは、主の命により、イスラエルの子らに命じた。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。 36:6 主がツェロフハデの娘たちについて命じられたことは次のとおりである。『彼女たちは、自分が良いと思う人に嫁いでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族に嫁がなければならない。 36:7 イスラエルの子らの相続地は、部族から部族に移してはならない。イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。 36:8 イスラエルの子らの部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族の一人に嫁がなければならない。イスラエルの子らが、それぞれ、その父祖の相続地を受け継ぐようにするためである。 36:9 このように、相続地は、部族からほかの部族に移してはならない。イスラエルの子らの部族は、それぞれ、自分たちの相続地を堅く守らなければならないからである。』」 36:10 ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行った。 36:11 ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、おじの息子たちに嫁いだ。 36:12 彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族に嫁いだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。 36:13 これらは、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエルの子らに命じられた命令と定めである。 民数記27章でツェロフハデの娘たちの相続権が認められましたが、36章では、彼女たちが他の部族の男性と結婚した場合、相続した土地が他の部族に移ってしまうという問題が提起されました。これは補完すべき問題でした。法律を制定しても反作用や抜け穴があるもので、絶えず改正し、補完していく必要があります。なぜなら、立法したり補完したりするよりも、人間の欲望の方がはるかに勤勉だからです。 モーセはツェロフハデの娘たちが、必ず自分たちの部族内でのみ結婚しなければならないという、より緻密な規則を定めました。神は各部族の土地を保全し、イスラエル共同体の秩序を維持するための後続措置を取られたのです。今後も多様な利害関係の訴えがあるでしょうし、制度は絶えず改正されることでしょう。問題は解決しましたが、その話が終わると同時に民数記も終わりました。 民数記の最後の場面は、まるで次の物語の予告編のように、約束の地に入るイスラエル民族が引き起こす出来事に対する意味深長な伏線を張っているようです。各部族の利害関係と個人の欲望は、制度的な補完の要求であるかのように見えましたが、実はその中には最初から利害関係による葛藤の種が内包されていました。法的な解決策は見つかったものの、人間の欲望はいつでも共同体の秩序を脅かす可能性があるでしょう。 民数記を読み終えました。聖書を読んだ者がまず悟るべきことは、信仰の亀鑑や教訓ではなく、人間に対する一次的な絶望です。民数記全体を通して民衆が示した不従順と不平、そして荒野での生活で絶えなかった葛藤は、すでに人間の弱さと罪深い本性を如実に露呈しました。ヨシュア時代に移行してカナンの地に入りますが、人間はそう簡単には変わりません。今後、約束の地で繰り広げられる欲望と利己心がどのようなものか、ヨシュア記と士師記を通してより痛ましく読まなければなりません。聖書の歴史は、優れた人間の信仰によるものではなく、神の愛が導いていくものなのです。

민수기 묵상 【민수기가 남긴 여운】 20250611(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 36:1~13 36:1 요셉 자손의 가족 중 므낫세의 손자 마길의 아들 길르앗 자손 가족의 두령들이 나아와 모세와 이스라엘 자손의 두령 된 족장들 앞에 말하여 36:2 가로되 여호와께서 우리 주에게 명하사 이스라엘 자손에게 그 기업의 땅을 제비뽑아 주게 하셧고 여호와께서 또 우리 주에게 명하사 우리 형제 슬로브핫의 기업으로 그 딸들에게 주게 하셨은즉 36:3 그들이 만일 이스라엘…

民数記 黙想 【制度化された神様の言葉】 20250610(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 35:22~34 35:22 もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、 35:23 または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、 35:24 会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。 35:25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。 35:26 もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、 35:27 血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。 35:28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。 35:29 これらのことは、あなたがたがどこに住んでも、代々守るべき、あなたがたのさばきの掟となる。 35:30 もしだれかが人を打ち殺したなら、証人たちの証言によってその殺人者を殺す。一人の証人の証言だけで、人を死刑にすることがあってはならない。 35:31 あなたがたは、殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は死ぬべき悪しき者なのである。彼は必ず殺されなければならない。 35:32 逃れの町に逃れさせる代わりに贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、彼を帰らせて国に住むようにさせてはならない。 35:33 あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。 35:34 あなたがたは、自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエルの子らのただ中に宿るからである。」 神様は、誤って人を殺してしまった者が逃れることができるように逃れの町を設けられましたが、逃れの町が完全な治外法権だったわけではありません。そこは、故意かどうかが明らかになるまで、被害者家族の復讐を制限し、加害者を保護して、公正な裁判を保障するための猶予の空間でした。たとえ誰かが逃れの町に逃げ込んだとしても、彼が故意の殺人を犯したことが立証された瞬間、彼は必ず死刑に処されなければなりませんでした。逃れの町とは、真実が明らかになるまで一時的に隔離する制度であり、現代で言えば拘束前の保護措置のようなものでした。 法律の究極的な目的は、刑罰の執行にあるのではなく、ともに生きるためにあります。したがって法律は、共同体の秩序と公共の安全に対する公共的責任を問うものです。罪は個人の道徳的失敗にとどまらず、社会に影響を及ぼすものであるため、公共の正義の実現という目的において機能しなければなりません。そのため、法律は厳格である必要があり、個人が自らの自由と権利を守るためには、法を守らなければなりません。 現代の日本と韓国の法精神には、聖書的価値が反映されています。日本国憲法は、アメリカの修正憲法における人権条項や、キリスト教自由主義の伝統に基づいて制定されました。アメリカ独立宣言に見られる「創造主から与えられた生命・自由・幸福の権利」が、憲法の条文に反映されています。韓国の制憲憲法も、キリスト教的自然法思想とアメリカ型の自由民主主義的憲政モデルを積極的に取り入れました。憲法第10条に規定されている「人間の尊厳」と「幸福追求の権利」は、人間が神様のかたちに創造された尊厳ある存在であるという聖書的人間観を反映しています。 アメリカ憲法の背後にも、ヨーロッパのキリスト教精神、とりわけ宗教改革によって回復された聖書中心の人間観があります。したがって、私たちの憲法はキリスト教的世界観に由来する「人間の尊厳」と「公共の正義」の産物であることを、忘れてはなりません。少なくとも日本人と韓国人は、望むか望まないか、信じるか信じないかに関係なく、神様の秩序の中で、神様の統治を受けて生きているのです。法律は恵みとは無関係なものではありません。法律とは、神様の正義がこの世の秩序を通して現れる「神様の言葉」であり、創造主の御前でどのように生きるべきかを示す鏡なのです。

민수기 묵상 【제도화된 하나님의 언어】 20250610(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 35:22~34 35:22 원한 없이 우연히 사람을 밀치거나 기회를 엿봄이 없이 무엇을 던지거나 35:23 보지 못하고 사람을 죽일 만한 돌을 던져서 죽였다 하자 이는 원한도 없고 해하려 한 것도 아닌즉 35:24 회중이 친 자와 피를 보수하는 자 간에 이 규례대로 판결하여 35:25 피를 보수하는 자의 손에서 살인자를 건져 내어 그가 피하였던 도피성으로 돌려 보낼 것이요…

民数記 黙想 【逃れの町に対する誤解】 20250609(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 35:9~21 35:9 主はモーセに告げられた。 35:10 「イスラエルの子らに告げ、彼らに言え。ヨルダン川を渡ってカナンの地に入るとき、 35:11 あなたがたは町々を定めて、自分たちのために逃れの町とし、誤って人を打ち殺してしまった殺人者がそこに逃れることができるようにしなければならない。 35:12 この町々は、復讐する者からあなたがたが逃れる場所となる。殺人者が、さばきのために会衆の前に立たないうちに死ぬことのないようにするためである。 35:13 あなたがたが与えるべき町は六つの逃れの町で、それらは、あなたがたのためのものである。 35:14 このヨルダンの川向こうに三つの町を、カナンの地に三つの町を与えて、逃れの町としなければならない。 35:15 イスラエルの子ら、または彼らの間に在住している寄留者のために、これら六つの町は逃れの場所となる。すべて誤って人を打ち殺してしまった者が、そこに逃れるためである。 35:16 もし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。 35:17 もし、人を殺せるほどの、手に持てる石で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。 35:18 あるいは、人を殺せるほどの、片手に持てる木製の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。 35:19 血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい。 35:20 もし、人が憎しみをもって人を突き倒すか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせたなら、 35:21 または、敵意をもって人を手で打って死なせたなら、その打った者は必ず殺されなければならない。その人は殺人者である。その血の復讐をする者がその殺人者に出くわしたときには、彼を殺してもよい。 神様はイスラエル社会において六つの「逃れの町」を設けるよう命じられました。これは、誤って人を殺してしまった者が律法による復讐殺人から逃れられるようにするための制度でした。「人を殺してもよい」という律法が実際に存在したからこそ、過失による加害者を制度的な暴力から守ろうとされた神様の憐れみの表れでもありました。ただし、この制度は故意の殺人には適用されず、過失に限定されていました。逃れの町は、正義と憐れみのバランスを通して、共同体の中の「理不尽さ」を最小限に抑えるための神様の繊細な配慮でした。 今日、教会や社会が逃れの町の精神を生かすということは、誰かの過ちに対して一方的に責め立てるのではなく、悔い改めと謝罪、補償、そして自己弁護の機会を与える「寛容な姿勢」として現れるべきでしょう。被害者にはその被害による苦しみがあり、加害者には過度な処罰による苦しみがあるかもしれません。人間は誰しも自己中心的な視点を持っており、それを完全に統合することは不可能です。逃れの町とは、まさにこのように交差する「理不尽さ」の中で、正義と憐れみのバランスを模索する空間だったのです。 したがって、被害者の「理不尽さ」や苦しみが依然として残っている状況において、イエス様の赦しを無責任に引用したり、自ら免除や回復を宣言するべきではありません。イエス様の赦しは、被害者の痛みを無視する神の“免罪符”ではありません。むしろ、それは人間が共同体の中で当然負うべき責任について深く省みさせるものです。社会的責任から逃れる者を、霊的に成熟した人とは言えません。逃れの町の本来の趣旨は、責任から逃れようとする者に「逃げ道」を与えることではなく、制度的な暴力を制限するためのものでした。 逃れの町をイエス・キリストの救いの予表として解釈する見解は、「憐れみ」や「機会」という側面においては理解できます。しかし、両者を同じ構造として等しく見ることは適切ではありません。イエス様を避け所として理解することは可能ですが、それが旧約の逃れの町と同じ構造や条件を持つわけではありません。類比的な解釈は成り立ちますが、本質的に等しいとは言えないのです。イエス様の救いとは、過ちに対する寛容ではなく、原罪によって堕落した人間という存在全体を新たにされる「全人格的な救いの出来事」なのです。逃れの町は、福音の直接的な象徴というよりも、律法の枠内で共同体の公平を保つために設けられた特別な規定であり、複雑な人間の感情の中で「理不尽さ」を調整しようとする制度でした。 本日の本文から、二つのことを考えさせられます。第一に、逃れの町はイエス様の救いと同一視できるものではないということ。第二に、共同体は異なる立場と「理不尽さ」の中でも、加害者と被害者のどちらもが完全に死なず、共に生きる道を知恵をもって模索すべきだということです。逃れの町とは、人を殺しても逃げられるイエス・キリストを示すものではなく、共同体における対立する理解や感情の中で、イエス・キリストの知恵と平和を実現しようとする制度であったと語るべきなのです。