Ⅰテモテ 黙想 【パウロが愛した三人】 20250714 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 5:1~16 5:1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、 5:2 年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。 5:3 やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。 5:4 もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。 5:5 身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、 5:6 自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。 5:7 彼女たちが非難されることのないように、これらのことも命じなさい。 5:8 もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。 5:9 やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満ではなく、一人の夫の妻であった人で、 5:10 良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助けるなど、すべての良いわざに励んだ人にしなさい。 5:11 若いやもめの登録は断りなさい。彼女たちは、キリストに背いて情欲にかられると、結婚したがり、 5:12 初めの誓いを捨ててしまったと非難を受けることになるからです。 5:13 そのうえ、怠けて、家々を歩き回ることを覚えます。ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話さなくてよいことまで話すのです。 5:14 ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。 5:15 すでに道を踏み外し、サタンの後について行ったやもめたちがいるからです。 5:16 もし信者である女の人に、やもめの身内がいるなら、その人がそのやもめを助けて、教会に負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会は本当のやもめを助けることができます。   パウロはテモテに、教会内での人間関係における秩序について具体的な指針を与えています。年長者に信仰的な勧めをする際の注意点、未亡人など経済的弱者を助ける際の原則、家族の責任などに関する現実的な助言を通して、極端に傾いたときに見失いがちな反対側の価値を思い出させてくれます。 「何が規則か」よりも重要視しているのは、「どうすれば関係を損なうことなく、信仰の本来の目的を目指すことができるか」という牧会的な知恵と情緒的な感受性の要請です。教会内の公的な秩序について語っているように見えますが、その中にある私的な尊厳や関係の大切さも見落としてはいません。 教会は規範だけでは維持できません。パウロが規則を作っているように見えても、その背後には「規則だけでは支えきれない感情」という重みへの配慮が見て取れます。年長者にも矯正が必要なことはありますが、無礼を犯してはならず、貧しい未亡人に対して福祉を実践することも大切ですが、支援の対象となる状況を見極め、逆効果を避けることも忘れてはいけません。 この本文を先輩から受け取った手紙として読み、それを一言で要約するならば、「教会の秩序と個人の尊重の間にある複雑な問題を柔軟に乗り越えていくようにというパウロの気遣いに満ちた助言」と言えるでしょう。もちろんこれは共同体のための使徒的な識別ですが、制度的な教会論ではなく、関係的な有機体としての教会理解だと言えます。 規則として読んでも有益です。しかし、テモテはパウロの弟子として、それを機械的に規則化することなく、パウロが大切にしていた「教会の秩序」と「聖徒の尊重」という二つへの愛を汲み取っていたでしょう。そしてその愛に従って、原則を守りつつも、より広い器の人格をもって信徒たちに接したに違いありません。ここでパウロが愛したのは、キリストの体なる教会、その中の聖徒たち、そして愛する後輩テモテでした。

디모데전서 묵상 【바울이 사랑한 세 사람】 20250714(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

디모데전서 5:1~16 5:1 늙은이를 꾸짖지 말고 권하되 아비에게 하듯하며 젊은이를 형제에게 하듯하고 5:2 늙은 여자를 어미에게 하듯하며 젊은 여자를 일절 깨끗함으로 자매에게 하듯 하라 5:3 참 과부인 과부를 경대하라 5:4 만일 어떤 과부에게 자녀나 손자들이 있거든 저희로 먼저 자기 집에서 효를 행하여 부모에게 보답하기를 배우게 하라 이것이 하나님 앞에 받으실 만한 것이니라 5:5 참 과부로서…

Ⅰテモテ 黙想 【公の礼拝の秩序のために】 20250710 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 2:1~15 2:1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。 2:2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。 2:3 そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。 2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。 2:5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。 2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。 2:7 その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。 2:8 そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。 2:9 同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、 2:10 神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。 2:11 女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。 2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。 2:13 アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。 2:14 そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。 2:15 女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。   使徒パウロは、異邦人とユダヤ人、言語と文化、宗教と政治、思想と理念、性別と年齢の違いをも、福音の中に包み込めるという信念を決して捨てませんでした。彼はどんなイデオロギーや思想にも偏ることなく、ユダヤ人とギリシャ人が衝突する複雑で多様な違いの中でも、福音の中での平和を追求しました。パウロの働きは、誰もが共に礼拝できる秩序と安全のある共同体、すなわち公の礼拝の場を築くことでした。 フェミニズムの視点から見ると、今日の本文は差別的構造として読まれることもありますが、パウロの意図はジェンダーによる支配や抑圧ではなく、礼拝共同体の秩序を守り、福音を保とうとする牧会的勧告でした。古代社会は家父長制と奴隷制が共存しており、女性の教育的・社会的地位もまた制限されていました。そのような状況の中で、パウロが女性に教えることを控えるように言ったのは、単なる権威の問題ではなく、当時の教会に混乱をもたらしかねない誤った教えや世俗的な流れを防ぐという公共的秩序への配慮でした。 男女を問わず、すべての信徒は公の礼拝の中で自分自身を節制し、一つの共同体を築くにあたり、互いへの尊重と従順、責任と献身を実践すべきです。公的な場での制限が必ずしも差別であるとは限りません。共同体の中で誰もが秩序に従い、委ねられた秩序の中で礼拝を築くべきです。リーダーは奉仕の責任を全うし、共同体はそれを信頼し従うべきです。それが福音共同体の成熟であり、秩序の本質です。 礼拝中に会衆に沈黙を求めることが、会衆を軽視することにはなりません。それは礼拝という静かな秩序と敬意の空間の中で、すべての人が神の前に出るための姿勢です。その秩序の中で、男性も女性も、年配の人も若者も、皆が自分を低くし、礼拝できるのです。それぞれが自分の位置を守り、互いのために献身するとき、初めて福音の中で一つとなった礼拝が実現するでしょう。

디모데전서 묵상 【공예배의 질서를 위해서】 20250710(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

디모데전서 2:1~15 2:1 그러므로 내가 첫째로 권하노니 모든 사람을 위하여 간구와 기도와 도고와 감사를 하되 2:2 임금들과 높은 지위에 있는 모든 사람을 위하여 하라 이는 우리가 모든 경건과 단정한 중에 고요하고 평안한 생활을 하려 함이니라 2:3 이것이 우리 구주 하나님 앞에 선하고 받을실 만한 것이니 2:4 하나님은 모든 사람이 구원을 받으며 진리를 아는데 이르기를 원하시느니라…

Ⅰテモテ 黙想 【二つの罪】 20250709(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 1:12~20 1:12 私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。 1:13 私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。 1:14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。 1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。 1:17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。 1:18 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。 1:19 ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。 1:20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。私は、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。     最も聖なる人は、自分を最も大きな罪人と考える。パウロは「私は罪人のかしらです」と告白し、福音の恵みがどこから始まるのかを明確に示しています。「罪人」という言葉は、人間がアダムの中で堕落した存在的実存を意味し、「かしら」という表現は、パウロがかつてイエスを迫害し、教会を攻撃していたという歴史的行為の告白です。すべての人は罪人ですが、パウロは自分こそが、その罪人を救うために来られたイエスに逆らった者、すなわち「罪人のかしら」であったことを認めています。 しかし興味深いのは、自分を最も哀れな罪人だと告白したパウロが、同時にある人々を厳しく叱責している点です。「罪人のかしら」から罪を指摘される彼らの罪とは何でしょうか?それは「罪を罪として認識しないこと」でした。彼らは自分たちの過ちに気づかず、内なるアラームである「良心」を捨ててしまっていました。パウロは、罪に対する無感覚、恵みに対する無関心こそが、より致命的で深刻な罪だと見なしていたのです。 「良心を捨てた」とは、単なる個人的な感情や社会的な規範に背いたという意味ではなく、神の啓示に照らして形づくられた内面の正直さ、すなわち聖霊の導きに応答する霊的感受性を無視したということです。パウロにとって「良心」とは、信仰を現実に支える土台であり、それが崩れると結局は信仰も座礁する、と警告しています。 問題は、罪があるかないかではありません。罪と恵みの間に何の内的な揺れもない状態、それこそがより深刻な堕落なのです。罪が多ければ、恵みの対象にはなり得ますが、罪を自覚しない状態では、恵みの機会も通路も存在しません。パウロはこの霊的無感覚こそが、信仰を破壊し、教会を損なう本当の脅威であると見抜いていました。 だからこそ、パウロは自らをへりくだって「罪人の中で最たる者」と告白しながらも、悔い改めを失った人々を叱責せずにはいられなかったのです。「罪が多いところに恵みも多い」という言葉は、「たくさん罪を犯したから、たくさんの恵みを受ける」という意味ではありません。恵みは罪を犯さず敬虔に生きていると自負する人に与えられるものでも、罪を多く犯した人に与えられるものでもなく、自分の罪を深く自覚する者にこそ注がれるのです。

디모데전서 묵상 【두 가지 죄】 20250709(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

디모데전서 1:12~20 1:12 나를 능하게 하신 그리스도 예수 우리 주께 내가 감사함은 나를 충성되이 여겨 내게 직분을 맡기심이니 1:13 내가 전에는 훼방자요 핍박자요 포행자이었으나 도리어 긍휼을 입은 것은 내가 믿지 아니할 때에 알지 못하고 행하였음이라 1:14 우리 주의 은혜가 그리스도 예수 안에 있는 믿음과 사랑과 함께 넘치도록 풍성하였도다 1:15 미쁘다 모든 사람이 받을 만한 이…

Ⅰテモテ 黙想 【神学と律法の役割】 20250708(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 1:1~11 1:1 私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 1:2 信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。 1:3 私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、 1:4 果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。 1:5 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。 1:6 ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、 1:7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。 1:8 私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。 1:9 すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、 1:10 淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。 1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。     パウロはテモテにエペソの教会を託し、他の教えを説く者たちに警戒するように言います。この「他の教え」とは、福音の本質を曖昧にする思弁的な信仰を指しています。見分けるべきことは、真実か偽りかという問題ではなく、「信仰の言葉」と「信仰でない言葉」とを区別することです。信仰でない言葉は、たとえ悪意がなくとも、最終的には悪しき結果をもたらすのです。 当時のユダヤ伝統に基づく系図論争やグノーシス主義は、福音を単なる知識体系に還元し、共同体を分裂させる危険な思想でした。福音を知る者は、そのような誤りに陥ることはありません。誤りは神学を学ばなかったから起こるのではなく、福音を知らないことから生じます。神学は教会の意味や価値を創出したり、教会の存在を証明するための手段ではなく、教会が福音をより明確に証しするために存在する言語であるべきです。 パウロは律法の本質についても明確に述べています。律法は「正しい人」のためではなく、「不法な者や罪人」のためにあるのです。律法は罪を明らかにし、福音の必要性を自覚させるための道具です。律法が福音と切り離されるなら、共同体は裁きと比較、功績主義による傲慢と偽善、そして功績主義の舞台となってしまうでしょう。 宗教的・学問的優越を誇ろうとする態度は、すべて共同体が警戒すべき害悪です。正しい教えとは、知的優越のための道具ではなく、教会を通して人々を変化させる命の通路でなければなりません。エペソ教会は今、核心を周辺へと押しやり、形式が本質を飲み込もうとしています。パウロの心は焦っています。福音と共同体を愛する者は、その現状を見極めることができるでしょう。

디모데전서 묵상 【신학과 율법의 용도】 20250708(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

디모데전서 1:1~11 1:1 우리 구주 하나님과 우리 소망이신 그리스도 예수의 명령을 따라 그리스도 예수의 사도 된 바울은 1:2 믿음 안에서 참 아들 된 디모데에게 편지하노니 하나님 아버지와 그리스도 예수 우리 주께로부터 은혜와 긍휼과 평강이 네게 있을지어다 1:3 내가 마게도냐로 갈 때에 너를 권하여 에베소에 머물라 한 것은 어떤 사람들을 명하여 다른 교훈을 가르치지 말며 1:4…

詩篇 黙想 【感情が現実を支配する時】 20250707(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 89:38~52 89:38 しかしあなたは拒んでお捨てになりました。あなたは激しく怒っておられます。あなたに油注がれた者に向かって。 89:39 あなたはあなたのしもべとの契約を廃棄し彼の王冠を地に捨てて汚しておられます。 89:40 あなたは彼の城壁をことごとく打ち壊しその要塞を廃墟とされました。 89:41 道行く者はみな彼から奪い取り彼は隣人のそしりの的となっています。 89:42 あなたは彼の仇の右手を高く上げ彼の敵をみな喜ばせておられます。 89:43 しかもあなたは彼の剣の刃をさやに戻し彼が戦いに立てないようにしておられます。 89:44 あなたは彼の輝きを消し彼の王座を地に投げ倒されました。 89:45 あなたは彼の若い日を短くし恥で彼をおおわれました。セラ 89:46 いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠されあなたの憤りが火のように燃えるのは。 89:47 心に留めてください。私の生涯がどれほどかを。あなたがすべての人の子らをいかにむなしいものとして創造されたかを。 89:48 生きていて死を見ない人はだれでしょう。だれが自分自身をよみの手から救い出せるでしょう。セラ 89:49 主よあなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです。 89:50 主よみこころに留めてください。あなたのしもべたちの受ける恥辱を。私が多くの国々の民をすべてこの胸にこらえていることを。 89:51 主よあなたの敵どもはそしりました。あなたに油注がれた者の足跡をそしったのです。 89:52 主はとこしえにほむべきかな。アーメン、アーメン。   神の契約を受けた共同体が、その契約を疑わなければならないほどの絶望と混乱に陥っている。すべての基盤が崩れ去り、世の中で恥をかかされている。約束と現実のギャップに苦しんでいる。神の契約は確かであっても、人間が現実の中で感じる感情は、その契約の重みに耐えられない。現実の苦しみが長引くと、人は約束よりも状況に大きく影響され、結局約束を握ることができず、状況に揺さぶられて中心を失ってしまう。 人々は「神についての話は現実味がなく信じがたい」と言うが、実際には人間は現実さえもありのままに認識できない存在である。約束と現実の衝突が大きくなるほど、人は感情的に揺らぐ。心理学ではこのような内的な衝突を「認知的不協和(にんちてきふきょうわ)」と呼ぶ。信仰にまつわる緊張が深まると、人は通常2つの方法で反応する。1つは神とその信仰を疑うことであり、もう1つは自分を無価値な存在とみなし、自らを崩壊させることである。 信念の解体であれ、自己の放棄であれ、その根は約束にあるのではなく、感情の傷にある。感情が傷つき始めると、人は限りなく揺れ、崩れていく。まるで約束が破棄されたかのように感じ、神に見捨てられたように思い、最終的には「神など存在しない」との結論に至る。感情に騙されたのである。問題は約束にあるのではなく、追い詰められた感情が約束を信じられず、感情に欺かれたということだ。 状況を変える力がないなら、この危機を乗り越える唯一の方法は「耐えること」を見出すことしかない。約束という原則は、感情には役立たないときがある。だからこそ、約束よりも感情を先に扱うアプローチは実際的と言えるかもしれない。感情に騙されたなら、自ら感情を騙してみるのだ。人間は手のひらで空を覆おうとし、小さな誉め言葉で自尊心を回復することもある。時には、感情をなだめ、欺いてでも安定を見つけるべきではないか。それによって、約束への信頼を回復する足がかりが得られるならば。 詩人は絶望的な現実の中でも、心の告白を止めることなく、最後には賛美で詩を締めくくっている。「主をとこしえにほめたたえよ。アーメン、アーメン(詩篇89:52)」。この最後の節から感じられる呼吸は、胸がいっぱいになるようだ。賛美が詰まってしまっているが、それでももがきながら賛美の場所へ向かっているように見える。感情に打ち勝てない現実、その「現実」という衣を一時的に脱ぐことができる力は、宗教と芸術が本来的に持っていたものである。賛美はついには心の汚れを洗い流し、感情を新たにしてくれるだろう。彼は感情が崩れた中でも、絶えず祈りの詩を書き続けていた。詩が完成した頃には、彼は再び耐える力を得ていただろう。

시편 묵상 【감정이 현실을 지배할 때】 20250707(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 89:38~52 89:38 그러나 주께서 주의 기름 부음 받은 자를 노하사 물리쳐 버리셨으며 89:39 주의 종의 언약을 미워하사 그 관을 땅에 던져 욕되게 하셨으며 89:40 저의 모든 울타리를 파괴하시며 그 보장을 훼파하셨으므로 89:41 길로 지나는 자들에게 다 탈취를 당하며 그 이웃에게 욕을 당하나이다 89:42 주께서 저의 대적의 오른손을 높이시고 저희 모든 원수로 기쁘게 하셨으며 89:43…