マタイによる福音書 黙想 【律法の二つの顔】 20260121(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 5:17~26 5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。 5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。 5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。 5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。 5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、 5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。 5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。 5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。 律法は福音と対立するものであり、だからこそ恵みを妨げるものだと考えられがちである。しかし新約聖書が律法に対して警戒しているのは、厳密に言えば律法そのものではなく、律法が人間の高慢と結びつき、律法主義へと変質してしまうときに現れる歪みに対する警戒である。人は律法を誤解し、あるいは悪用することがある。しかし神が与えられた律法そのものが、決して悪であるはずがない。 イエスは山上の説教において、ご自分が律法や預言者を廃棄したり無効にしたりするために来られたのではなく、むしろそれらが初めから指し示していた神の御心を最後まで成し遂げ、完成するために来られたのだと語られた。言い換えれば、イエスは律法を取り除くことによって新しい時代を開く方なのではなく、律法が内包していた神の意図と目的を完全に明らかにするために来られたのである。 そうであるなら、神が律法を与えられた趣旨と、神がイエスを遣わされた趣旨を明確にしなければならない。律法は救いを得るための条件でもなく、救いを妨げる障害物でもない。律法とは、選ばれた共同体が神の御前で、そして人々と共に生きていくための秩序であった。律法は、神を礼拝する人間、共に生きるべき人間、その人間性を守るための最小限の装置であった。 福音は律法と戦い、それを廃棄しようとするものではない。福音は、律法が最後まで到達し得なかった根本的なところにまで届き、それを解決する神の最終的な救いの方式である。律法は「何が正しいのか」を教える。しかし福音は、「その正しさを知りながらも、それを全うできない人間」を生かす神の愛である。 イエスは律法を語りながら、「殺人」という主題へと絞り込み、23節で「それゆえ」という接続詞を通して、互いに恨みを抱く関係の清算と、それに伴う礼拝の回復を語られる。つまり、イエスが語られた律法が律法主義ではなく、共同体の中の社会性、すなわち共に生きるために与えられた神の装置であることが分かる。神に向かう信仰は、決して人に向かう態度と切り離すことはできないのである。 福音は律法の反対ではなく、律法に現された神の御心を最後まで成し遂げる神の完成である。「律法」という言葉を漢字として裏返してみれば、それは「法律」である。法律を守るからといって人間が善くなるわけではない。法律は人間に善くなれと言わない。ただ、これ以上悪くならないようにブレーキをかけるだけである。法律は罪を制限することはできるが、愛を強制することはできない。イエスは愛を証しすることによって、律法の精神を完成されたのである。

マタイによる福音書 黙想 【逆説がつくり出した空間】 20260120(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師  (복제)

マタイによる福音書 5:1~16 5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。 5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。 5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。 5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。 5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。 世の中は「強い者、持っている者、勝った者」を、幸せな人、祝福された人だと言う。しかし、イエスの八福は最初から最後まで逆説である。貧しい者、嘆く者、欠けた者にこそ福があると言われる。難しい話ではない。自分に正直であるなら、経験的にも分かることだ。もちろん不思議に思えるが、誰も否定できない逆説的真理である。救いと恵みが滅びと絶望の逆説であるように、人生の一次的な絶望を抱え、それを「福」と呼ばれるのは、人間の一次的な絶望を通過せずに福を語ることはできないからである。八福を読む者は、その福を現実へと連れ戻さなければならない。 イエスは「心の貧しい者は幸いである」と言われた。世の中では貧しさは欠乏であり失敗だと考えられる。しかし、欠乏がなければ満足も成長も実在しない。伝道の書は、すべてのことに時があると言った。本質的には、富と貧しさは同じものなのかもしれない。生まれる時があり、死ぬ時がある。ただその時が違うだけで、それを人生と呼ぶのである。心の貧しさとは、貧困を自覚することだ。富んだ者は貧しい者に向かって、貧しさから這い上がれと言う。しかし、あまりにも深い貧しさは、誰かが引き上げてくれなければ抜け出せないこともある。心の貧しい人は、自分自身ではなく、救いを望むことができる。 「嘆く者は幸いである」という言葉もまた逆説である。嘆きというのは、憤りや悔しさの感情とは少し違うのではないだろうか。それらを通過した後に残る感情なのだろう。越えられない限界に直面した人間の、悲しい現実認識である。罪と死という壁の前で、人は嘆くほかない。しかし、まさにその嘆きがあるゆえに、人は自己克服の道へ進むのではなく、神の慰めを待つ場所へと向かうことができる。「貧しい者は天の御国を受け、嘆く者は慰めを受ける」という約束があるが、その約束をつかむためには、まず自分自身への絶望、すなわち人間存在の貧しさと嘆きを正直に直視しなければならない。 イエスは「柔和な者は地を受け継ぐ」と言われた。地とは不動産のことだろうか。そうではあるまい。影響力や支配力として読むべきだろう。世の中は強い者が地を奪い取ると信じている。しかしイエスは、柔和な者の境界がさらに広げられると言われたのである。支配力は支配しようとする心から生まれるのではなく、柔和な心から生まれる。柔和な心から生じる影響力は、抑圧的な支配ではなく、人々の同意と信頼の上に築かれる統治力である。地は誰かに支配されたことなどない。強い者が地を手に入れるのではなく、地がその強い者を飲み込み、その上に墓をつくるだけである。 心の貧しい者、嘆く者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和をつくる者、義のために迫害された者――この八人が別々にいるのではない。実はそれは一人の人間である。その人は自己確信に満ちた者ではなく、自分の限界を正直に見つめている者である。自分の中から答えが出てこないことを知り、世の中のやり方では結局救いをつくり出せないことを知っている者である。八福とは、成功した人々の秘訣ではない。神が入って来られる空間を持った一人が受ける福なのである。

마태복음 묵상 【율법의 두 얼굴】 2026021(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 5:17~26 5:17 내가 율법이나 선지자나 폐하러 온 줄로 생각지 말라 폐하러 온 것이 아니요 완전케 하려 함이로다 5:18 진실로 너희에게 이르노니 천지가 없어지기 전에는 율법의 일점 일획이라도 반드시 없어지지 아니하고 다 이루리라 5:19 그러므로 누구든지 이 계명 중에 지극히 작은 것 하나라도 버리고 또 그같이 사람을 가르치는 자는 천국에서 지극히 작다 일컬음을 받을 것이요…