マタイによる福音書 黙想 【甘えの構造】 20260122(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 5:27~37 5:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。 5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。 5:31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。 5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。 5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。 5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。 5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。 5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。 人は罪を犯したあと、その罪悪感を処理するために自分を正当化する。そうして良心は次第に鈍くなっていく。本文には三種類の人が登場する。「姦淫してはならない」という戒めを聞きながらも、女を見て情欲を抱く人。離婚証書さえ渡せば離婚できるのだと考え、正当な理由もなく妻を捨てる人。そして誓いによって自分の言葉を保証しようとする人である。彼らは心の中では姦淫しながらも、実際の行為にまでは至っていないのだから大丈夫だと思い、定められた手続きを踏んだのだから離婚しても問題ないと思い、真実の問題を形式で置き換えることができると考えている。 しかし罪は行動の領域にだけあるのではない。罪はすでに心の欲望の中で始まっているのであり、関係は法律上の手続きで終わるものではなく、責任の中にある。また「正しいなら正しい、間違っているなら間違っている」と言えばよいことに、無理に誓いを乱発してはならない。人は非難を避けるために、自分で免責できる基準線を作り出す。そしてその線を越えていないという理由で自分を正当化し、人々の前でも神の前でも、自己欺瞞によって踏みとどまろうとする。 しかしイエスは、「行為としてはしていない」という結果よりも、「何を望んでいたのか」という動機を問われる。また「手続きを踏んだ」という事実よりも、「相手の人生がどうなったのか」を問われる。そして「誓った」という形式よりも、それが真実なのかどうかを問題にされる。イエスは弁解の中に隠れている偽善と自己欺瞞を暴き、安易な自己正当化を捨てよと言われるのである。神の前で、自分が作った基準線の陰に隠れてはならない。それは道徳がより厳しくなることではなく、むしろ自分自身に正直になる道なのである。

マタイによる福音書 黙想 【甘えの構造】 20260122(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 5:17~26 5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。 5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。 5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。 5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。 5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、 5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。 5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。 5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。 律法は福音と対立するものであり、だからこそ恵みを妨げるものだと考えられがちである。しかし新約聖書が律法に対して警戒しているのは、厳密に言えば律法そのものではなく、律法が人間の高慢と結びつき、律法主義へと変質してしまうときに現れる歪みに対する警戒である。人は律法を誤解し、あるいは悪用することがある。しかし神が与えられた律法そのものが、決して悪であるはずがない。 イエスは山上の説教において、ご自分が律法や預言者を廃棄したり無効にしたりするために来られたのではなく、むしろそれらが初めから指し示していた神の御心を最後まで成し遂げ、完成するために来られたのだと語られた。言い換えれば、イエスは律法を取り除くことによって新しい時代を開く方なのではなく、律法が内包していた神の意図と目的を完全に明らかにするために来られたのである。 そうであるなら、神が律法を与えられた趣旨と、神がイエスを遣わされた趣旨を明確にしなければならない。律法は救いを得るための条件でもなく、救いを妨げる障害物でもない。律法とは、選ばれた共同体が神の御前で、そして人々と共に生きていくための秩序であった。律法は、神を礼拝する人間、共に生きるべき人間、その人間性を守るための最小限の装置であった。 福音は律法と戦い、それを廃棄しようとするものではない。福音は、律法が最後まで到達し得なかった根本的なところにまで届き、それを解決する神の最終的な救いの方式である。律法は「何が正しいのか」を教える。しかし福音は、「その正しさを知りながらも、それを全うできない人間」を生かす神の愛である。 イエスは律法を語りながら、「殺人」という主題へと絞り込み、23節で「それゆえ」という接続詞を通して、互いに恨みを抱く関係の清算と、それに伴う礼拝の回復を語られる。つまり、イエスが語られた律法が律法主義ではなく、共同体の中の社会性、すなわち共に生きるために与えられた神の装置であることが分かる。神に向かう信仰は、決して人に向かう態度と切り離すことはできないのである。 福音は律法の反対ではなく、律法に現された神の御心を最後まで成し遂げる神の完成である。「律法」という言葉を漢字として裏返してみれば、それは「法律」である。法律を守るからといって人間が善くなるわけではない。法律は人間に善くなれと言わない。ただ、これ以上悪くならないようにブレーキをかけるだけである。法律は罪を制限することはできるが、愛を強制することはできない。イエスは愛を証しすることによって、律法の精神を完成されたのである。

마태복음 묵상 【아마에의 구조】 2026022(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 5:27~37 5:27 또 간음치 말라 하였다는 것을 너희가 들었으나 5:28 나는 너희에게 이르노니 여자를 보고 음욕을 품는 자마다 마음에 이미 간음하였느니라 5:29 만일 네 오른눈이 너로 실족케 하거든 빼어 내버리라 네 백체 중 하나가 없어지고 온 몸이 지옥에 던지우지 않는 것이 유익하며 5:30 또한 만일 네 오른손이 너로 실족케 하거든 찍어 내버리라 네 백체중…