マタイの福音書 黙想【祈りの通りに生きること】20260124(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
マタイの福音書 6:1-15 6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。 6:2 ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 6:3 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。 6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 6:5 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。 6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。 6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。 6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。 6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。 6:13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』 6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。 言葉と行いが一致することは、人間関係においても、また社会的にしても、きわめて重要な美徳とされています。言ったとおりに行い、語ったことを守って生きる人には、自然と信頼が生まれます。その意味で私たちは、自分の言葉と行い、さらに、祈りと行いとを調べてみる必要があります。私たちの祈りもまた、私たちの「言葉」であるからです。 私たちは、どのような内容を祈っているでしょうか。私たちは本当に自分が願い、必要としていること、大切だと考えていることを、神様に自分の言葉としてささげているはずです。そうではなく、考えもせずに習慣的に唱えているだけならば、それは「祈り」とは呼べません。それが同じ言葉をただ繰り返すことであり、別の目的をもつ、偽善のようなものです。 私たちが心から祈ることが実現されることを求めるのであれば、それに伴う行いが求められます。人は本来、本当に求めているもののためなら、どんな手を使っても手に入れようとする存在であるからです。イエス様は祈りについて教えられただけでなく、その祈りをご自身の生き方そのもので示されました。そう考えると、主の祈りは「このように祈りなさい」と教えられた祈りであると同時に、「このように生きなさい」と教えられた生き方そのものでもあるでしょう。 しかし当然のことで、イエス様のように完全ではない私たちが神様にささげる祈りの中には、私たちの力では成し遂げることのできないこと、実現できないこともあります。聖い生き方を求めて祈っているのに、思い通りに生きて行けない自分の姿を見て、落胆することもあるでしょう。また、祈り、実践しようと決意しても、その思いが何度も崩れ、元の自分の生き方に戻ってしまう自分に、悔しさを覚えることもあります。 しかし、今日イエス様がそのような私たちに、祈りと生き方を教えておられること、そしてその教えがどこから始まっているのかに目を向けると、私たちがこれからどのようにして歩んでいくべきか、その糸口を見いだすことができるでしょう。私たちは、この教えが「山上の説教」の一部であることを、忘れてはいけません。 その始まりは、心の貧しい者、悲しむ者など、特定の心の状態や姿で生きている人々に向けて語られます。そしてそこに描かれている姿は、祈り通りに生きることができない、私たち自身の姿とも重なり合います。この姿こそが、私たちが祈り通りに生きるための、最初の一歩なのです。 祈りには、必ずそれに伴う行いが求められます。しかしそれは、自分の努力で成し遂げられるという傲慢さから出ることではありません。心から求めているからこそ行動し、そして結局は失敗してしまう自分の姿の中で、「自分にはできない」という謙遜な姿になるためのことです。そのような私たちの姿を通して、神様は、私たちに「祈りの通りに生きること」を成し遂げてくださいます。 https://youtu.be/QQiLmv4cjC0?si=PxklkWliHSqskPqF


