マタイによる福音書 黙想 【逆説的に…】 20260126(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 6:25~34 6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。 6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。 6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。 6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。 6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。 6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。 6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。 6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。 今日の本文は、直前に語られた「宝をどこに積むのか」「神と富とを同時に仕えることはできない」という御言葉に続いて出てくる。重要なキーワードは「思い煩い」だろう。しかしイエスは、思い煩いを性格的な繊細さとして扱われない。誰を主人として仕えているのか、その結果として必然的に生まれるものとして扱われる。神が主人でなければ富が主人になる。富が主人になれば、人の人生は食べて生きる問題に侵食され、ついには思い煩いが避けられない生活様式になってしまう。 けれども、人間にも言いたいことがある。私たちは、鳥やユリを用いた詩的な表現よりも、はるかに具体的で露骨な問題を語ることができる。底をついた残高、関係の危機、病の恐怖――思い煩わずにはいられない現実の中で、私たちはまるで追い詰められたネズミのように必死にもがく。だからこそ、口に出せなかった言葉が胸の奥で膨らむ。「イエスの御言葉が良いことは分かっています。でも正直に生きてみると、あまりにも非現実的です!」この感情に共感することには説得力がある。しかし、だからといって思い煩う生き方まで説得力があるわけではない。その罠から抜け出さなければならない。 食べること、飲むこと、着ることは、実際に私たちの一日を左右する力をもっている。重要な霊的原理は、重要な現実を正面から扱わざるを得ない。だからイエスは、私たちの最も重要な現実である「生存の圧力」に真正面から触れられる。これもまた逆説である。イエスは最も現実的な問題を取り上げながら、それを最も非現実的に見える方法――「思い煩うな」という解決で扱われるように見える。けれども実は、現実を扱う人間のやり方こそが最も非現実的であり、それが「思い煩い」だと語っておられるのである。 思い煩いはみっともなく見えるが、たいていはまじめで勤勉だ。これも逆説的だ。私たちは「備え」という言葉で不安を合理化する。しかし思い煩いとは、苦しみを避けるための備えではなく、苦しみを前払いしてしまうことに過ぎない。だからイエスは問われる。「あなたがたのうち誰が、思い煩ったからといって背丈を一尺でも伸ばすことができるだろうか。」ここで「一尺」と訳された一キュビトは約45センチである。背が低いことを心配して45センチ伸びるなら、私もたくさん心配しただろう。思い煩いは熱心に生きる技術のように見えるが、実際には人生の幅を狭めてしまう無効な精神労働なのかもしれない。 「まず神の国と神の義を求めなさい。」ここで「まず」とは時間の順番ではなく優先順位である。国を先に求めるとは「お金を無視しなさい」という意味ではなく、「お金が主人にならないようにしなさい」という意味だ。イエスは私たちの必要を否定されない。ただ、その必要が神になってしまうことを止められる。必要は現実だが、それが神になった瞬間、人は果てしなく不安になる。「そうすれば、これらのものはすべて与えられる」という約束もまた逆説である。それは報いの公式ではなく、関係に対する信頼である。神は「欲しいもの」をすべて与えるとは言われず、「必要なもの」をご存じだと言われた。 「一日の苦労は、その日だけで十分である。」一日に担うべき苦しみがあるという事実も、主は認めておられる。人生は苦しみを避けられない。この前提が違えば、この御言葉の解釈も変わらざるを得ない。それでも主は、その苦しみが一日を越えてはならないように境界を引かれる。だとすれば、信仰とは苦しみを消す力ではなく、苦しみの範囲を限定する力だと言うべきではないだろうか。今日の十字架は今日負えばよく、明日の十字架は明日の恵みによって負えばよい。逆説的に、私たちが今日を十分に生きられない理由は、明日がいつも今日を侵食してくるからである。 現実は重く、明日は恐ろしい。しかし今日と明日は神より大きくない。必要は現実だが、私の主人の現実はお金ではない。「神の国をまず求めよ」という言葉は、「現実を捨てよ」という意味ではなく、「現実を神の下に置け」という意味である。神の御言葉をより現実的に受け取る方法――それは現実をあまり考えないことではなく、神をより現実として受け取ることだ。これも逆説である。誰であれ、信仰を取り出して実際に用いてみない限り、この御言葉はその人の内で現実にならない。神を最優先に置く瞬間、人は最も現実的な人生を生きるようになるだろう。逆説的に――。


