マタイによる福音書 黙想 【狭い門】 20260128(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 7:13~29 7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。 7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。 7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。 7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。 7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。 7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。 この本文には、異邦人も、無神論者も、露骨に悪い人間も登場しない。イエスが語っておられる対象は、最初から最後まで、宗教に慣れ親しんだ人々である。道を歩く人も、語る人も、預言する人も、主の名を呼ぶ人も、すべて宗教的な言語と行為に親しんでいる人々の話である。したがってこれは、信仰の外にいる人々への警告ではなく、宗教のただ中にいる人々に向けて、その宗教的言語が生み出してきた自己欺瞞を暴く言葉である。 広い道とは、宗教と区別された「世の道」を指しているのではない。むしろ広い道とは、宗教がうまく機能している道のことである。すでに整えられ、慣れ親しんでおり、説明を必要とせず、多くの人々が疑いなく共に歩いている道である。あえて決断しなくてもよく、今の自分の生活を解体しなくてもよい。既存の宗教というシステムの上に乗りさえすれば、自然に流れていくことができる。信仰と献身の形をしていながら、自分を手放さなくてもよいがゆえに、その道は広いのである。 それに対して、狭い道は宗教的な難易度が高いから狭いのではない。自分を捨てなければ通ることができないがゆえに狭いのである。この道を妨げているのは道幅ではなく、自分自身である。自分の体格や荷物をそのまま抱えたままでは進むことができない。狭い道を行こうとする者は、自分を削り、捨てながら進まなければならない。だからこそ狭い道なのである。 イエスは偽預言者を警告されるが、それを見分ける基準が、いわゆる正統教理であるとは言われない。マタイによる福音書7章で語られている、「裁くな」「罪に定めるな」「自分の目の梁を先に見よ」「人からしてもらいたいと思うことを人にせよ」という流れの中で語られている言葉である。実とは、この流れから切り離された独立した概念ではない。偽預言者と真の預言者の決定的な違いは、教えている内容の正統性や、所属教団、出身神学校ではなく、人を集めて教えようとするその動機にある。健全な共同体であれば、その実を見て分別することができるはずである。 「主よ、主よ」と神を呼ぶことさえ、イエスは指摘される。神を呼ぶこと、その回数や声の大きさは、神の前に立つ真実さや深さと必ずしも比例しない。神への呼びかけが、神の御心に自分自身を調律する場へとつながらないとき、その言葉は親密さではなく仮面となる。そのとき、イエスの応答は「わたしはあなたがたを知らない」である。これは、うまくできたかどうかの問題ではなく、知っているか知らないかの問題である。倫理の問題ではなく、関係の問題である。関係がないところに、倫理や熱心さが築かれることはない。 預言も、力も、奇跡も、それらはすべて現象であった。それが偽りであったからではなく、それらのゆえに、父の御心を問わなくなったからである。神はすでに啓示しておられ、今も啓示しておられるにもかかわらず、人間は絶えず別の啓示を探し求める。それを神そのものだと思い込み、従っていく。御言葉の前に真剣ではなく、見えるもの、感じられるものに神を付与する。それは耐えがたいほど軽い存在のあり方である。 最後のたとえにおいて、倒れた家は、神の言葉がなかった家ではない。確かに御言葉を聞き、理解し、知っていた家である。しかし、神の言葉はその人の人生の構造にはなっていなかった。御言葉はあったが、それを材料として人生を築いてはいなかった。雨が降り、洪水が起こり、風が吹いたとき、その実が明らかになる。実は、根と幹と枝が一つの完全な構造をなしているときにのみ結ばれる。 皮肉なことに、神がいなくても宗教は大きく、華やかで、よく回っていく。それを基準にしてしまえば、人は生ける屍のようになる。自分を削り、周囲に目を配り、緊張をもって狭い道を歩き、自分の動機を吟味し、宗教的な形態から必死に逃れなければならない。見えるものよりも、見えないところで神を見いださなければならない。そうして与えられた時間の中で、「信仰」というものを築き上げていくのである。


