マタイによる福音書 黙想 【ただ、おことばを下さい】 20260129(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 8:1~13 8:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。 8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。 8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。 8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」 8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、 8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。 8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。 8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。 8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」 8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。 8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。 8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。 百人隊長はローマの将校、すなわち支配者の側に立つ人物である。しかしイエスは、その人の中に、ユダヤ人の中では見いだすことのできないほど大きな信仰があると言われる。当時この言葉を聞いていたユダヤ人たちと、今この物語を読んでいる私たち、そしてイエスが考えておられる「信仰」は、それぞれ異なっているように思える。イエスが語られる信仰とは、ただ純粋な信仰である。それは宗教でもなく、政治でもなく、社会的な何ものでもない。イエスは百人隊長を通して、神の国が血統や宗教的所属によって保証されるものではないことを、はっきりと示される。 百人隊長は、イエスを自分の家に迎えることさえふさわしくないと言う。先に癒やされた重い皮膚病の人も同じであった。彼らは回復を求めるが、癒やしを権利として主張しない。百人隊長は自分を低くする。同時に、イエスの権威を正確に理解し、認めている。「ただお言葉をください。」これまで奇跡を求める人は数多くいた。しかし彼は、イエスの人格と御言葉の力そのものを信頼した。この姿勢の中に、イエスは信仰を見いだされたのである。 私たちはこの箇所を、マタイ福音書7章を思い起こしながら読む必要がある。「主よ、主よ」と呼び、多くのことを成し遂げてきた見慣れた人々と、名もなき異邦人の将校との違いは何なのか。それは、神を自分の言葉で所有しようとした人々と、御言葉の権威の下に自分を低く置いた人との違いではないだろうか。信仰とは、自分をどこに置くかという問題である。正解を語る能力ではなく、自分を空にし、神の御言葉に自分を整列させる姿勢である。 「ただお言葉をください。御言葉が働かれるでしょう」と語り、そのように信じる信仰は、決して容易ではない。御言葉を信じるとはどういうことなのかを、真剣に考える人は多くない。ただ「御言葉だけでもありがたい」と言って、恵みを受けたつもりになることが多い。しかし信仰とは、歯を食いしばって信じることではなく、その内にある信頼が自然に表れることにほかならない。御言葉に神の力があり、御言葉そのものが神であると信じるなら、御言葉を読まなかったり、軽く扱ったりすることはできない。「ただお言葉をください」という信仰は、もしかすると、まだ本気で認めたことも、試みたこともない信仰なのかもしれない。

마태복음 묵상 【말씀으로만 하옵소서】 20260129(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 8:1~13 8:1 예수께서 산에서 내려오시니 허다한 무리가 좇으니라 8:2 한 문둥병자가 나아와 절하고 가로되 주여 원하시면 저를 깨끗케 하실수 있나이다 하거늘 8:3 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 즉시 그의 문둥병이 깨끗하여진지라 8:4 예수께서 이르시되 삼가 아무에게도 이르지 말고 다만 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 모세의 명한 예물을 드려…

マタイによる福音書 黙想 【狭い門】 20260128(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 7:13~29 7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。 7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。 7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。 7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。 7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。 7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。 この本文には、異邦人も、無神論者も、露骨に悪い人間も登場しない。イエスが語っておられる対象は、最初から最後まで、宗教に慣れ親しんだ人々である。道を歩く人も、語る人も、預言する人も、主の名を呼ぶ人も、すべて宗教的な言語と行為に親しんでいる人々の話である。したがってこれは、信仰の外にいる人々への警告ではなく、宗教のただ中にいる人々に向けて、その宗教的言語が生み出してきた自己欺瞞を暴く言葉である。 広い道とは、宗教と区別された「世の道」を指しているのではない。むしろ広い道とは、宗教がうまく機能している道のことである。すでに整えられ、慣れ親しんでおり、説明を必要とせず、多くの人々が疑いなく共に歩いている道である。あえて決断しなくてもよく、今の自分の生活を解体しなくてもよい。既存の宗教というシステムの上に乗りさえすれば、自然に流れていくことができる。信仰と献身の形をしていながら、自分を手放さなくてもよいがゆえに、その道は広いのである。 それに対して、狭い道は宗教的な難易度が高いから狭いのではない。自分を捨てなければ通ることができないがゆえに狭いのである。この道を妨げているのは道幅ではなく、自分自身である。自分の体格や荷物をそのまま抱えたままでは進むことができない。狭い道を行こうとする者は、自分を削り、捨てながら進まなければならない。だからこそ狭い道なのである。 イエスは偽預言者を警告されるが、それを見分ける基準が、いわゆる正統教理であるとは言われない。マタイによる福音書7章で語られている、「裁くな」「罪に定めるな」「自分の目の梁を先に見よ」「人からしてもらいたいと思うことを人にせよ」という流れの中で語られている言葉である。実とは、この流れから切り離された独立した概念ではない。偽預言者と真の預言者の決定的な違いは、教えている内容の正統性や、所属教団、出身神学校ではなく、人を集めて教えようとするその動機にある。健全な共同体であれば、その実を見て分別することができるはずである。 「主よ、主よ」と神を呼ぶことさえ、イエスは指摘される。神を呼ぶこと、その回数や声の大きさは、神の前に立つ真実さや深さと必ずしも比例しない。神への呼びかけが、神の御心に自分自身を調律する場へとつながらないとき、その言葉は親密さではなく仮面となる。そのとき、イエスの応答は「わたしはあなたがたを知らない」である。これは、うまくできたかどうかの問題ではなく、知っているか知らないかの問題である。倫理の問題ではなく、関係の問題である。関係がないところに、倫理や熱心さが築かれることはない。 預言も、力も、奇跡も、それらはすべて現象であった。それが偽りであったからではなく、それらのゆえに、父の御心を問わなくなったからである。神はすでに啓示しておられ、今も啓示しておられるにもかかわらず、人間は絶えず別の啓示を探し求める。それを神そのものだと思い込み、従っていく。御言葉の前に真剣ではなく、見えるもの、感じられるものに神を付与する。それは耐えがたいほど軽い存在のあり方である。 最後のたとえにおいて、倒れた家は、神の言葉がなかった家ではない。確かに御言葉を聞き、理解し、知っていた家である。しかし、神の言葉はその人の人生の構造にはなっていなかった。御言葉はあったが、それを材料として人生を築いてはいなかった。雨が降り、洪水が起こり、風が吹いたとき、その実が明らかになる。実は、根と幹と枝が一つの完全な構造をなしているときにのみ結ばれる。 皮肉なことに、神がいなくても宗教は大きく、華やかで、よく回っていく。それを基準にしてしまえば、人は生ける屍のようになる。自分を削り、周囲に目を配り、緊張をもって狭い道を歩き、自分の動機を吟味し、宗教的な形態から必死に逃れなければならない。見えるものよりも、見えないところで神を見いださなければならない。そうして与えられた時間の中で、「信仰」というものを築き上げていくのである。

마태복음 묵상 【좁은 문】 20260128(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 7:13~29 7:13 좁은 문으로 들어가라 멸망으로 인도하는 문은 크고 그 길이 넓어 그리로 들어가는 자가 많고 7:14 생명으로 인도하는 문은 좁고 길이 협착하여 찾는 이가 적음이니라 7:15 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라 7:16 그의 열매로 그들을 알찌니 가시나무에서 포도를, 또는 엉겅퀴에서 무화과를 따겠느냐 7:17 이와 같이 좋은 나무마다…