マタイによる福音書 黙想 【私の所属】 20260211(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 12:38~50 12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。 12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。 12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。 12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、 12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。 12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。 12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。 12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。 12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」 本文には、三つの出来事が語られているように見える。第一に、律法学者とファリサイ人たちがイエス様にさらなるしるしを求めたことに対し、イエス様がヨナのしるし以外には与えられないと答えられた場面である。第二に、悪霊が出て行った後、その空いたところを神様のもので満たさなければ、以前よりも悪い状態になるという警告である。第三に、イエス様の母と兄弟たちが訪ねて来たとき、血縁の家族ではなく、神様のみこころを行う者こそが真の家族であると語られた場面である。 一見すると別々の話のようだが、これら三つの出来事は共通して「どこに属しているのか」という所属の問題を語っている。マルコはこの共通点を意識して本文を編集したのだろう。しるしを求める人々は、しるしがもっと明確に現れたなら信じてもよいと言う。しかし、聖書的にも、歴史的にも、また経験的にも、確認が信仰になった例は一度もない。今後もないだろう。確認できないから信仰なのであり、確認された瞬間、それはすでに信仰ではなくなる。奇跡を見たり体験したりすること自体が信仰になるわけではない。人は確認し、量り、判断しようとするが、その所属はすでに神様の内にはない。 続く空になった家のたとえは、信仰において「所属のない中立」というものが存在しないことを語っている。信じるか、信じないかであり、いわゆる合理的な信仰というものは存在しない。中立であること自体が、すでに神様の所属ではない。悪霊の支配は断ち切られたが、その内側を神様で満たさなければ、かえってより危険な状態になるという警告は、神様への所属を曖昧にすればするほど、神様ではないものへの所属が明確になっていくという意味である。最後にイエス様は、血縁を超えて、神様のみこころを行う者こそが真の家族であると語られる。神様への所属は、どのような所属よりも優先される。 自分の所属を語らず、隠して生きる人々は、何をそれほど恐れているのだろうか。何がそんなに恥ずかしいのだろうか。本文が求めている所属は、証明書として発行できるものではない。教会籍謄本や洗礼証明書でも示すことはできない。語る言葉と、取る行動と、選び取る生き方、その現実によってのみ示される所属である。


