マタイによる福音書 黙想 【自由からの逃避】 20260212(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 15:1~20 15:1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。 15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」 15:3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。 15:4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。 15:5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、 15:6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。 15:7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。 15:8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 15:9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」 15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」 15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」 15:13 イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。 15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」 15:15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」 15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。 15:17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。 15:18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。 15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。 15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」 パリサイ人や律法学者たちは、イエス様の弟子たちが手を洗わずに食事をしていることを非難した。それは衛生の問題ではなく、長老たちの言い伝えに背いたという理由からであった。その言い伝えとは、本来は祭司に求められていた清めの規定を、日常生活のすべての人にまで拡大したものであった。 イエス様は、その形式的な枠組みこそが、かえって神様の戒めに逆らっていることを指摘された。その代表的な例が「コルバン」である。神様にささげたという口実によって、両親を敬う責任を回避する人々の姿である。形式が親孝行という本質を転倒させ、子が親を飲み込むという倫理的な逆転を生み出したのである。 心理学では、これを「モラル・ライセンシング(道徳的免許効果)」と呼ぶ。守るべきことを守ったのだから問題ない、という自己正当化の構造である。しかし、なぜそれを守ると決めたのか、それを守ろうとした本来の目的や精神が何であったのかは問われない。その結果、主客は転倒し、へそが腹より大きくなる。 これは明らかに警戒すべき弊害であるが、同時に人間にとって極めて自然な傾向でもある。人は自由を恐れる。実存は選択を要求し、選択は責任を伴うからである。そのため人は、自ら体制や規範に身を合わせ、思考を停止した自動的存在になろうとする。勇気のない者は自由を求めず、自由が与えられてもそれを生きることができない。形式は維持されるが、人間性は縮小されていく。これが自由からの逃避である。 キルケゴールは、キリスト教が制度化されると、「キリストに従う生き方」が「キリスト教文化に属すること」へと変質すると指摘した。これは極めて鋭い洞察である。手段が目的のように機能することは、単なる誤作動ではなく、堕落である。清い水は器に汲まれなければならない。ゆえに器は重要である。しかし、器を水に沈めてしまってはならない。


