マタイによる福音書 黙想 【信仰告白の縦糸と横糸】 20260223(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 16:13~28 16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。 16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。 16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。 16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」 16:20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。 16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。 16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」 数週間前の主日礼拝で、マルコの福音書8章を本文として「あなたはわたしをだれだと言うのか」という題で説教しました。今日のマタイの本文も、カイサリア・フィリピでのペテロの信仰告白、再びあの出来事です。書物は違いますが、出来事は同じです。私はマルコとマタイをそれぞれ尊重します。それは単なる繰り返しや重なりではないからです。福音書は一つの出来事をそれぞれ異なる角度から解釈します。視点と意図が異なります。それはそれぞれ異なる共同体に向けた異なるメッセージとして伝えられました。であるならば、今日の私たちの黙想も、事実を歪めない範囲で意味を解釈しなければなりません。黙想とは、他人の解釈にうなずく行為ではなく、出来事の意味を自分が立っている場所から責任をもって思索するための訓練です。 マルコの福音書では、ペテロの告白は最小限に紹介されています。告白はマタイのものより短く、その後に続くイエス様の祝福もなく、その告白からつながる教会への言及もありません。そしてすぐに「サタンよ、わたしの後ろに下がれ」という厳しい叱責だけが続きます。そこから読み取れるマルコの意図は明らかです。イエス様をキリストと呼ぶことと、イエス様の道を理解し従うこととは別の問題だということです。告白の言葉は正しくても、その内容はまだ十字架を通過していません。十字架を通らないメシア理解は未完成です。だからこそマルコの関心は弟子道にあります。自分を否み、十字架を負わない告白は、まだキリストに対する明確な告白ではないということです。 マタイの福音書は、ペテロの告白を個人の信仰表現に閉じ込めません。さらにさかのぼり、その告白が初めから神様によって開かれた霊的認識であったことを示します。マタイが語るペテロの信仰告白の源は人間ではなく神様です。しかしそれは人間の口によって告白されたものであり、その告白は共同体の土台となります。したがって共同体の根源的な出発点もまた神様です。教会は信仰告白、すなわちその源である神様の選びによって建てられます。その意味でマタイの関心は共同体にあります。個人の悟りと告白が集まり教会の基礎となり、その土台の上に共同体が築かれていきます。経験的にもこれを否定することはできません。信徒一人ひとりの人格的な信仰告白が網のように結び合わされて健全な教会が形づくられます。 二つの福音書の結論は異なりません。マルコは十字架のないメシアは存在しないと語り、マタイは十字架のメシアの上に教会が建てられると語りました。告白は十字架を通過しなければなりません。そしてその十字架を通過した告白の上に教会が建てられます。先に主体的に解釈しようと言いましたが、それは恣意的な解釈を意味するのではありません。根拠をもって正当に解釈されたなら、それは再び問いとなって戻ってくるでしょう。正しい解釈は解釈した者をあらためて問い直します。私はイエス様をだれと告白しているのか。私の告白は十字架を通過しているのか。そしてその告白の上に、私は今何を築いているのか。

마태복음 묵상 【신앙고백의 세로줄과 가로줄】 20260223(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 16:13~28 16:13 예수께서 가이사랴 빌립보 지방에 이르러 제자들에게 물어 가라사대 사람들이 인자를 누구라 하느냐 16:14 가로되 더러는 세례 요한, 더러는 엘리야, 어떤이는 예레미야나 선지자 중의 하나라 하나이다 16:15 가라사대 너희는 나를 누구라 하느냐 16:16 시몬 베드로가 대답하여 가로되 주는 그리스도시요 살아계신 하나님의 아들이시니이다 16:17 예수께서 대답하여 가라사대 바요나 시몬아 네가 복이 있도다 이를 네게…