マタイの福音書 黙想【失わない共同体】20260227(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
マタイの福音書 18:10-20 18:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。 18:11 – 18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。 18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。 18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。 18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。 18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。 18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。 18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。 18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。 18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」 「迷う一匹の羊のたとえ」と呼ばれる今日の御言葉の節は、その前後の文脈とあわせて読むと、私たちにさらに深い洞察を与えます。失ったものを取り戻したときの喜びのように、神様もまた、迷い出た者が立ち返ることを大いに喜ばれるというメッセージは、これまで多くの説教の中で、私たちへの救い、または伝道や宣教、あるいは教会を離れた人々を呼び戻す働きに力を与えてきました。 しかし、この御言葉を改めて見つめ直すと、より大切なところは、失われたものを取り戻すことよりも、そもそも失わないことであると気づかされます。この御言葉は、外部に向けて適用される前に、まず私たちの内部に適用されるべきものです。これを外側にだけ当てはめているなら、私たちは羊を失うことを繰り返すだけでしょう。イエス様は、「迷う羊を探し出しなさい」とだけ語られたのではなく、「わたしのうちにとどまりなさい」と語られました。 これまでイエス様が教えられた祈りは、確かに静かな部屋での密やかな祈りでした。しかし今日の箇所では、心を一つにして共に祈ることを教えられています。そしてそこに現れるのが「教会」という存在です。イエス様はご自分の教えを覆されたのではありません。同じ志を持つ共同体、すなわち教会のあるべき姿を教えておられるのです。 イエス様が語られたとおり、イエス様の御名によって集まる教会の力は、この世が打ち勝てないほどのものです。しかし、そのような教会の形成を妨げる要因は、ほとんどの場合、教会の外にあるのではなく、教会の中にあります。 現代においても、さまざまな理由で教会が分裂し、内部の争いが絶えない現実があります。その結果、教会を去る人も少なくありません。空いた席に新しい人が加わり、それを神様の恵みだと言うこともよくあります。しかしそれは緊急処置にすぎません。その教会に刻まれた、教会がその人に刻んだ本質的な傷は、まだ直ってはいないのです。その傷を予防し、また癒やしていく道は、互いに小さな子どものようにへりくだること、その小さな者を受け入れることであり、そして赦し合うです。 「証文の出しおくれ」ということわざを見て、「出しおくれたけれど、証文が用意できたからよかった」と言う人はいません。最も望ましいのは、牛を失わず、なおかつ囲いも整えられることです。私たちは、へりくだりと顧みと赦しが満ちあふれる関係を築き、イエス様に似た教会を建て上げていかなければなりません。そのようにして互いを守り合うのです。 そのように建てられる教会こそが、イエス様の御名によって集まり、イエス様ご自身がその中に共にいてくださる共同体なのです。 https://youtu.be/FG3HQsE4_xg?si=46dHGmeak0XzZz8ihttps://youtu.be/_q8QUYxphWs?si=lkpAHDoRMqI20fhU


