マタイの福音書 黙想【死の論争】20260313(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
マタイの福音書 22:23-33 22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。 22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。 22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。 22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。 22:27 そして最後に、その妻も死にました。 22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」 22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。 22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。 22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。 22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」 22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。 今日の箇所は、サドカイ人たちについての紹介とその登場から始まっています。彼らについての簡単な紹介は、「復活はないと言っているサドカイ人」です。しかし、そのような彼らがイエス様にした問いかけは、何と復活に関する問いでした。 その理由は明らかです。彼らが自信を持っていたことは、復活がないということを証明することだったからです。復活はないと言うサドカイ人たちは、いつも自分たちの考えを納得させるための多くの根拠を備え、誰かが復活について語るならば、それに対して細かく反論する準備をしていたでしょう。 サドカイ人たちは、なぜ復活はないと考えていたのでしょうか。その理由を簡単に見ると、彼らは聖書の中でも特にモーセ五書の権威を高く評価する人々だったからです。イエス様もまた、この事実をよく知っておられました。それゆえ彼らの質問に対して、イエス様は彼らが最も尊重しているモーセ五書のみことばから、その答えを提示されました。 しかし、私たちもまたイエス様のお答えを誤解してしまう可能性があります。イエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」と言われましたが、その前にすでに、遠い昔に死んだ彼らの先祖、アブラハムとイサクとヤコブの神であるという御言葉を引用しておられるからです。つまり、イエス様の目には、アブラハムとイサクとヤコブがまだ生きている状態のように見えていたということです。 多くの聖書はこの箇所の小題として「復活論争」という題を付けていますが、実際の内容は復活についての論争というよりも、復活を語るために必然的に通らなければならない「死」に関する論争に近いものです。サドカイ人たちが考えていた「死」と、イエス様が見ておられる「死」が異なっていたからです。 ただ肉体が死ぬことを「死」だと考えるなら、「神は死んだ者の神ではない」というイエス様の言葉は、とても冷たい言葉のように聞こえるかもしれません。しかし、その死の定義をイエス様の視点から改めて立て直すならば、その言葉はこの世のすべての人に希望を与える神様のみことばとなるのです。 イエス様は、肉体が死ぬことを「死」とは考えておられませんでした。実際にラザロをよみがえらせるとき、イエス様は「彼は眠っている」と言われました。イエス様が見ておられる本当の「死」とは、神様の約束から離れている状態です。ですから神様との約束の中にとどまっていたアブラハムとイサクとヤコブは、生きている者であり、イエス・キリストがすべての働きを終え、この地に再び来られるとき、生きている姿のままでお会いする者たちなのです。 私たちはこの「死」に関する論争を見ながら、今を「生きて」いる私たち自身について、もう一度考えなければなりません。私たちは今、本当に「生きて」いるのでしょうか。神様の永遠の真実な約束の中にとどまっているのでしょうか。 https://youtu.be/RvvnF2he6_c?si=1rvJjIfeaX_aAqpj


