マタイによる福音書 黙想 【無責任に対する責任】 20260323(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 25:14~30 25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。 25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、 25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。 25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。 25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。 25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。 25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』 25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』 25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。 25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』 25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。 25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。 25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。 25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。 25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』 タラントのたとえは、熱心さの問題ではない。かといって、単なる従順の問題でもない。何をどのように従うのかという、根本的でありながら極めて具体的な問題を扱っている。一タラントを受けた三番目のしもべは、元本を失ったわけでもなく、横領したわけでもなかった。きちんと保管していたのである。それにもかかわらず、神様は彼を「悪い怠け者のしもべ」と宣告された。問題は能力でも結果でもなく、神様に対する理解であった。神様を知らず、また知ろうともしないなら、その結果は怠惰であり、悪となり得るということである。彼は主人を「厳しい人」と理解していた。ここで言う厳しい人とは、計算高く、厳格な存在という意味である。その認識の中には信頼はなく、ただ恐れだけがあった。 そしてその恐れは、何もしないという選択へとつながった。信仰は行動の前に、まず関係の問題である。神様をどのように理解するかによって、人生と信仰の方向は決まる。誤った神様理解は、誠実で熱心な不従順さえ生み出してしまうことがある。本文にはない設定だが、もし第四のしもべがいて、彼が投資に挑戦したものの運用に失敗し、損失を出したと仮定してみよう。その場合、主人は彼をどのように評価しただろうか。1、2、3のしもべを見れば、4番目の結論は難しくない。主人は最初から成功や失敗、その大きさに責任を問うていたのではないからである。その点から考えれば、私は彼に対しても称賛と慰めがあったのではないかと思う。 恐ろしいのは失敗ではなく、何もしないことである。誰もが失敗を恐れるが、より恐ろしいのは、何もしないまま、すべての機会が過ぎ去ってしまうことである。それこそが神様を信頼していない状態だからである。「恐れて隠しておきました」という言葉は、謙遜ではなく、不信仰の告白であった。五タラントと二タラントは同じ評価を受けた。神様は結果の大きさをご覧になるのではない。どれだけ増やしたかではなく、与えられたものにどう応答したかをご覧になるのである。 資産運用のたとえとして語られているが、本当に恐ろしいのは資産運用そのものではなく、安全な宗教の中に身を隠すことである。神様理解を固定し、防御だけに回る人の神観は必ず歪む。神様は完全であり、変わることのないお方である。しかし人間の認識は不完全であり、変わり続ける。二十四年前に初めて信じた神様と、今理解している神様は同じではないし、変わっていくべきである。人はより成熟した理解へと変わっていかなければならない。そういう意味で、私は「信仰を守る」という言葉が持つ誤解の余地を常に警戒している。守るなという意味ではない。神様を疑えという意味でもない。自分の理解の不十分さを絶えず疑い、変わり続けるべきだという意味である。 何もしなければ損はしない、何もしなければ責任も負わなくて済むと人は考える。しかし神様は、何も責任を負わなかったその無責任に対して責任を問われる。行動すれば失敗することもある。しかし失敗したとしても、それは少なくとも不従順ではない。だが何もしなければ、失敗しなくてもそれは不従順であり、最終的な失敗となる。教会の建物を購入するときも、リトリートセンターを引き継ぐときも、カフェを始めようとするときも、「責任」という言葉は常に伴ってきた。いや、信仰を持った最初のときから、神学校に行く日までずっとそうであった。成功するか失敗するかは分からない。神様は人の能力を問われるのではなく、神様への信頼を問われている。その問いの前で、合理的な中立にとどまるなら、それはすなわち怠惰であり、悪となる。信仰には責任を負わなければならない。

마태복음 묵상 【무책임에 대한 책임】 20260323(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 25:14~30 25:14 또 어떤 사람이 타국에 갈 때 그 종들을 불러 자기 소유를 맡김과 같으니 25:15 각각 그 재능대로 하나에게는 다섯 달란트, 하나에게는 두 달란트, 하나에게는 한 달란트를 주고 떠났더니 25:16 다섯 달란트 받은 자는 바로 가서 그것으로 장사하여 또 다섯 달란트를 남기고 25:17 두 달란트 받은 자도 그같이 하여 또 두 달란트를 남겼으되…