QT

 

聖書に関心を持ったある留学生と会った。よく集中して聞いてくれて楽しくて有益な対話を交わした。その一方で、青年は少し慎重になっているようだった。聖書の勉強に参加することにしたが、その後肯定的な反応ができなければ、人々に失望を与えたり、失礼を犯すのではないかと心配をしていた。

 

私は知っている通り、そして信じている通りに答えた。「人が信じたいと言って信じられるわけではなく、信じたくないからといって信じないわけでもないです。ただ主イエス·キリストの福音を伝えられる機会に感謝するだけです。」 それは本気だった。信じる、信じないは私の手にはない。私にはきちんと伝えるかどうかの問題があるだけだった。

 

そういえば、青年は、礼儀正しく、廉恥のある人のようだった。好意に対して失望させたくない慎重さを持っていたし、昼休みに訪ねてきただけで申し訳ないと思っていた。ところが、ある意味では、クリスチャンとは実に廉恥知らずの人々ではないか。罪は自分が犯したが、神様の子が十字架にかけられ、それによって救われたと信じるが、十字架の前で涙一滴落とさない人ではないか。

 

もちろん、人は廉恥を重んじなければならない。恵みで受ける救いとすべてのことに責任が伴う社会的な道理を混同してはならない。明らかなことは、救いは罪人が廉恥知らずに受ける恵みであるということだ。「廉恥不顧」は、恥を顧みないという言葉である。資格はないが、大胆に受けることである。「お言葉はありがたいですが、私は大丈夫です!」救いは廉恥で遠慮することではない。こう言わなければならない。「御言葉であれば私が救われます。」 あの兄弟にも救いの恵みが望まれるように。