神を見上げる信仰
創世記4章1〜7節
姜旲憬 神学生
1.前回は創世記2章と3章から人間の堕落についてお話しました。人間に罪が入ってきたのです。その罪には必ず報酬があります。罪の報酬は死です。善悪の知識の木の実を取って食べたアダムとエバは、神様が語られた「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という言葉の意味に気づかぬまま、エデンの園から追放されました。実際に彼らの肉体が滅びることはなかったからです。しかし神様との関係が絶たれた以上、彼らはもはや死んだ者に他なりませんでした。これが堕落です。ちなみに堕落というのは、神様との関係だけでなく、この世界や自然との関係が絶たれ、そして人と人との関係も破壊されること、それが堕落です。さて4章に入ると、初めて人間の肉体の死が登場します。しかもそれは自然死ではなく殺人による死でした。カインがアベルを殺しました。まさに人間と人間の関係に破壊が生じたわけです。創世記4章8節、「カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。」人類の最初の死が殺人だというのは本当に悲しいものです。ただ殺人にも突発的なものと、計画的で意図的なものがあります。このカインの殺人はどちらでしょうか。明らかに後者の意図的な殺人です。なぜならカインは一緒に野に行こうとアベルを誘いだしたからです。さらに「襲いかかって殺した」という言葉からも、どれだけ残酷だったのかがわかります。第一ヨハネの手紙3章12節にはこうあります。「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」別の訳ではカインは「悪い者に属している」と言っています。ここで一つお聞きします。カインは殺人をしたから悪い者なのでしょうか?決してそうではありません。カインは悪い者に属していたからアベルを殺害したのです。カインがいつも神様の前に正しい者ではなく、いつも悪い者として生きていた、少なくとも神様の目にはそう映っていたのです。これは今日の本文を考える上で大きな手がかりになることでしょう。
2.それでは今日の本文を見ていきいます。創世記4章1節から2節前半まで。「人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は、主によって一人の男子を得た』と言った。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。」堕落した人間に対しても、誠実な神様は、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」という祝福の約束を忘れることはありませんでした。エバはその主によってカインを得たと告白しています。事実、カインという言葉は、「得る」「獲得する」という意味なのです。そのようにカインを与えられたエバは、次にアベルを産みました。ただアベルという言葉は「空しさ」「儚さ」という意味を持ちます。しかしなぜエバはカインの次に産まれた息子の名前を、このように、アベル、つまり、空しさ、儚さと付けたのでしょうか。聖書はそのことを語ってはいませんが、カインを育てるうちに何かを見たのでしょう。何かを悟ったのでしょう。その何かとは、人間の罪ではないでしょうか。エバは「苦しんでカインを産み」(創3:16)大事に大事に息子カインを育てたのに、またアダムも「顔に汗を流して糧を得て」(創3:19)カインを食べさせたのに、カインの成長を通して、様々な形で、人間とはいかに罪深い存在なのかということを見たはずです。人は虚しく、儚く、土のちりのような存在にすぎないという意味で、次に産まれた息子をアベルと名付けたのでしょう。その名前のように、アベルは兄カインの手によって、あまりにも空しく死んでいくことになったのです。これからその経緯をこれから見ていくことにしましょう。いずれにせよ、カインとアベルは成長し、それぞれの賜物によってアベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者になりました。
3.それでは3節から5節前半までをお読みします。「3しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。4アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持ってきた。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。5しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」
4.神様はなぜカインのささげ物には目を留められなかったのか?この解釈については学者たちによって幾つかに分かれます。例えば、動物のささげ物の方が穀物のささげ物より神様に受け入れられるという解釈があります。しかし後にモーセの律法では穀物のささげ物を必要とする規定がたくさんあることから、この解釈は妥当性に欠けると言えます。また、土地を耕す者よりも羊飼いの方を神様は喜んだとする解釈もありますが、創世記2章15節で神様はアダムに地を耕す人になるように言われたこともありますし、そもそも神様は職業を差別される方ではありません。そして三番目の解釈として、重要なのは礼拝であり、この二人の礼拝の差がささげ物の差となって表れたというものです。この解釈がおそらく一般的な立場として受け入れられているものでしょう。ただどれも「ささげ物」に焦点を当てた解釈です。ここで私たちは二つのことを考えなければなりません。第一に、ヘブル人への手紙11章4節の「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。」という御言葉を考えると、二人の差は信仰の差であるということが言える点です。しかもその信仰がささげ物に形となって表れたということです。また第二に、今日の本文の4節と5節を見るとわかるように、神様は「アベルとそのささげ物」に目をとめられ、「カインとそのささげ物」には目を留められませんでした。つまりささげ物の前に、それをささげた人をまず神様はご覧になったということです。この二つの点を合わせてみると、二人の信仰がそれぞれのささげ物に表れたのであり、神様は二人のその信仰に注目されたということが言えるでしょう。因みに韓国語では、この「目を留められる」という言葉が、「喜んで受け取る」という言葉に訳されいますが、正確なのは日本語の聖書で言う、「目を留める」「関心をもって見る」という翻訳です。
5.話を戻して、では二人の信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。本文には信仰という言葉は登場しませんが、「神様が目を留められる」という時に、どういう動機で目を留められたのかを理解する必要があると思います。なので、まずこの「目を留める」という言葉の特徴について見てみましょう。ヘブル語で「シャアー」というこの言葉は、旧約聖書に12回しか登場しない言葉です。そのほとんどが「人が神様を見る」という文脈で使われています。例えば、第二サムエル記22章42節、「彼らが主に目を留めても、救う者はなく、答えもありませんでした。」という時の「目を留める」、また詩篇119篇117節、「私を支えてください。そうすれば私は救われ、絶えずあなたのおきてを見つめることができます。」という時の「見つめる」が本文の「目を留める」という言葉と同じ単語です。他にもたくさんありますが、いずれも神様とその戒めを「見る」という時は、深い関心をもって、信頼をもって見るというニュアンスがあることは明確です。その一方で、「人が人を見る」という時にも使われます。例えば、イザヤ書22章4節、「私から目をそらせ。私は激しく泣きたい。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めるな。」という時の、「目をそらす」もまた「シャアー」という言葉です。「〜から目をそらす」というのは、「そのことだけに関心を持っていた」というニュアンがあるのではないでしょうか。このように「シャアー」という言葉は、人間に対してはそのことだけに目を留める、神様に対しては信頼をもって見る、という意味であることが言えます。では本文の「目を留める」はどうでしょう。主語が人ではなく、神様なのは今日の本文にだけ登場しますが、その言葉のニュアンスは変わりません。なので、神様はアベルとそのささげものには信頼をもって目を留められたのであり、一つのことだけを見るという言葉の特徴から、アベルとカインのささげものを比較することはなかったとも言えるのです。
6.しかしなぜ神様はアベルとそのささげものを信頼してご覧になったのでしょうか。それはアベルが神様を信頼して見ていたからです。神様は個々の人間の行為に対して、それと同じように報われるお方です。それは旧約聖書全体で一貫して語られています。イスラエルの民の不従順な行為の度に、神様はそれに応じた裁きを与えられたのは、私たちもよく知っている事実です。他にも、例えば、第一サムエル記2章30節、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」と語られているし、第一サムエル記15章23節ではサウルに対して、「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と語られました。このような神様のご性質はアベルとカインにも同じだったはずです。アベルが神様を見たので、神様もアベルをご覧になった。カインは神様を見なかったので、神様もカインをご覧にならなかった。そう言えるのではないでしょうか。そして何よりもこの二人の「ささげ物」に、それぞれの心がよく表れていることは言うまでもありません。3節ではカインが「大地の実り」を主にささげたと記しているのに対し、4節ではアベルが「自分の羊の初子の中から肥えたもの」をささげたと言っているからです。この「初子の中から肥えた物」というのは最も良いものを意味します。それをアベルは神様に献げたのです。しかし皆さん考えてみてください。羊飼いだったアベルがある日突然神様に一番良い羊を献げるためには、どうすればいいでしょうか。もちろん羊たちの数にもよりますが、私が思うに、彼が普段の生活から多くの羊を飼う中で、神様を見ていたと思うのです。つまり、この羊の中から神様に何をささげれば神様は喜ばれるだろうかと、神様のことを考え、あの羊がいいと予め区別していたと思うのです。そのようにいつも神様に自らの目と心を向けていたはずなのです。でなければ、3節の「しばらく時が過ぎた」その日に、最も良いものを献げることが難しかったことでしょう。神様を見続けていたアベルだからこそ可能だったのでしょう。神様に対するアベルの信頼と感謝がその羊に込められていました。アブラハムがイサクを神様に献げた時、イサクが全焼のいけにえであったと聖書は語っています。それが意味するのは、イサクを献げるアブラハムの従順と神様に対する信頼が、全焼のいけにえとして表れたことを言っているのです。自分を献げるほどの従順がそこにはあったのです。このように、ささげる人とそのささげ物は一つとなります、いわば一体化です。このように、神様はそのささげものに込められる人間の心を喜ばれるお方です。主はホセア書で「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」と言われました(6:6)。ささげものよりも、それをささげる人の心、真実の愛を喜ばれるのです。アベルとそのささげものが、まさにこのようなものだったのではないでしょうか。
7.一方のカインはどうでしょうか。5節では神様が拒まれたことを見て、「激しく怒り、顔を伏せた」と言っています。なぜ神様は拒まれたのか?を考え、自分とささげものに何か間違いがあったのではないかと反省しなかったカインは、この後弟アベルを殺すことになります。しかしここでもう既にカインの心は、殺人へのプロセスを踏んでいたのです。怒って顔を伏せた事実がそれを物語っています。神様から目を背けることが罪に直結します。正しい人はアベルのように神様を見続けています。カインは神様を見ませんでした。だから神様は7節でこのように言います。「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。」受け入れられるとは、別訳にもあるように、カインが神様に対して「顔を上げられる」ということです。つまり神様と顔を合わせることができるということです。しかし、そうできなかったカインの心には、もう既に神様を見ることのできない状態、罪があったのです。旧約聖書では「良いこと行う」という言葉は全て、文法的に未完了形で登場します。まだ完了していない、今も続いているということです。神様の前に正しいこと、それはどんな時でも神様を信頼して、見続けるということ、決して一瞬たりとも神様から目をそらさないということではないでしょうか。カインに対して神様は言われます。「しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せしている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」結局罪を治めることができなかったカインはとうとうアベルを殺してしまうのです。
8.アベルとカインの差は、神様をいつも見ていたのかということです。神を見るということが信仰の表れでもあります。今日の説教題、神を見上げる信仰というのは、実は「神を見る=(イコール)信仰」でもあるのです。この二人の差は大きな違いとして私たちに語られていますが、その一方で二人にはある共通点があります。それは3節にあるように、「しばらく時が過ぎて」ささげ物をささげる日が二人に訪れたということです。このしばらく過ぎてというのは、「収穫の日」という意味になります。この収穫の日にアベルとカインは神様にささげ物を捧げました。私たちにもいずれ収穫の日がやってきます。ある意味でさばきの日が訪れるのです。その時に神様が私たちと私たちのささげものに目を留めてくださるためには、どうすればいいでしょうか。しかしその前に私たちのささげものとは何でしょうか。毎週日曜日にささげる礼拝でしょうか。アベルは神様に最高のささげものを献げました。ただ神様はそれよりもアベルの信仰をもっと喜ばれたはずです。それはいつも神様を信頼し続け、神様だけを見続けた信仰、つまり彼の人生そのものです。ささげものよりも人間が大事なのです。神様は私たちにもそのようなささげものを求めておられるのではないでしょうか。私たちが神様にささげるべきささげ物とは、私たちの人生、私たちの日常です。それが礼拝となり、それを通して私たちの信仰を表していくのです。
9.このように私たちの信仰というのは、点ではなく、線なのです。1日ではなく、毎日なのです。点の信仰ではなく、線の信仰を持つためには、私たちが私たちの信仰をしっかりと考えなければならないでしょう。カインのように、何かあった時、ただ怒り顔を伏せるのではなく、自分の信仰に間違いがあるのではないか、点検し続けることが大事なのです。信仰は抽象的な言葉ですが、しかし本物の信仰とは具体的で実際的なもの、目に見える形として表れるのです。イエス様を信じたザアカイは「財産の半分を貧しい人たちに施します。脅し取った物があれば4倍にして返します」という具体的な決断をしました。また百人隊長の信仰を見てイエス様は「イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」と言われました。このように信仰は見えるものなのです。いや、むしろ見えなければなりません。信仰は告白を通しても表れれますが、最も美しいのは、私たちの礼拝、つまり私たちの日常を通して、表される時ではないでしょうか。
10.今は四旬節です。私たちがカインのように悪い者に属する者ではなく、アベルのように神様の目にとまる者として生きていくためには、キリストから目を離してはいけません。かつてカインの側にいた私たちは、キリストの義によってアベルのように神様に受け入れられる者となったからです。民数記21章には、イスラエルの民が神様とモーセに逆らって、「なぜわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」と不満を爆発させました。そこで主は燃える蛇を送り、噛みつかれた民たちは死んでいった記事が記されています。しかし主は一つの青銅の蛇をモーセに作らせ、それを仰ぎ見る者は「生きる」と約束されました。こうしてその青銅の蛇を見た者たちは生きたのです。皆さん、私たちにとってのこの青銅の蛇とは何ですか。ヨハネの福音書3章14〜15節をお読みします。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」私たちのために上げられたお方、イエス・キリストを、私たちは見上げなければなりません。イエス・キリストから目を離さず、見続けましょう。そして私たちに与えられた信仰を通して、信仰の創始者であり完成者である、イエス・キリストに最高の礼拝を、最高の人生をささげましょう。それが私たちの生きる道であり、それが私たちの生きる目的だからです。神様と以心伝心ができる、神様の御心、キリストの想いを私たちが汲み取ることができる、それは本当に素晴らしいことではないでしょうか。幸せな以心伝心を果たすためには、まず相手を見なければなりません。これからもイエス様とアイコンタクトを取り続け、イエス様から決して目をそらさない、そのような枝川愛の教会の礼拝共同体、信仰共同体となることを心からお祈りします。
하나님을 바라보는 믿음
창세기4장1~7절
강대경 신학생
- 지난 번 설교 때는 창세기 2장과 3장에서 인간의 타락에 대한 말씀을 드렸습니다. 인간에게 죄가 들어온 것입니다. 죄의 삯은 사망입니다. 그럼에도 선악과를 따먹은 아담과 하와는 하나님이 말씀하신 “네가 먹는 날에는 반드시 죽으리라”는 말씀의 뜻을 깨닫지 못한 채 에덴동산에서부터 추방된 것이죠. / 실제로 그들의 육체가 죽지 않았기 때문입니다. 하지만 하나님과의 관계가 단절된 이상 그들은 죽은 자들에 다름없었습니다. 이것이 타락입니다. 그러나 타락이란 하나님과의 관계뿐만 아니라 인간과 자연과의 관계의 단절, 인간과 인간의 관계의 파괴까지 포함한다는 것을 잊어서는 안 됩니다. / 창세기 4장에 들어가자 처음으로 인간의 육체의 사망이 등장합니다. 심지어 그 사망은 자연사가 아닌 살인에 의한 죽음이었습니다. 가인이 아벨을 죽인 것입니다. 여기서 바로 인간관계의 파괴가 발생하게 되는 것이죠. / 창세기4장8절 말씀입니다. “가인이 그 아우 아벨에게 고하니라 그후 그들이 들에 있을 때에 가인이 그 아우 아벨을 쳐죽이니라.” / 인류 최초의 사망이 살인인 것은 참으로 슬픈 일입니다. 다만 살인도 도발적인 살인이 있고 계획적이고 의도적인 살인이 있을 것입니다. 가인의 살인은 어느 쪽이겠습니까. 분명히 후자의 의도적인 살인입니다. / 왜냐하면 가인은 “함께 들에 가자”고 아우 아벨한테 고했기 때문입니다. 게다가 “쳐죽이니라”고 성경은 말씀합니다. 그의 살인이 얼마나 잔인했는가를 전하고 있습니다. / 요한일서3장12절에서 이렇게 말합니다. “가인 같이 하지 말라 저는 악한 자에게 속하여 그 아우를 죽였으니 어찐 연고로 죽였느뇨 자기의 행위는 악하고 그 아우의 행위는 의로움이니라.” / 여기서 가인이 악한 자에게 속한 자라고 설명합니다. 가인은 살인을 범했기 때문에 악한 자에 속한 것입니까? 아닙니다. 악한 자(에 속한 자)였기 때문에 살인을 범한 것입니다. / 가인이 항상 하나님 앞에 의로운 자가 아닌 악한 자로 살아왔다, 적어도 하나님 눈에는 그렇게 비친 것이겠죠. 이것은 오늘 본문 말씀을 이해하는데 큰 도움이 될 것입니다./
- 창세기4장1절에서 2절까지를 보겠습니다. “아담이 그 아내 하와와 동침하매 하와가 잉태하여 가인을 낳고 이르되 내가 여호와로 말미암아 득남하였다 하니라 그가 또 가인의 아우 아벨을 낳았는데 아벨은 양 치는 자이었고 가인은 농사하는 자이었더라.” / 타락한 인간에게 신실하신 하나님은 “생육하고 번성하여 땅에 충만하라 땅을 정복하라”는 약속의 말씀을 잊지 않으셨습니다. 하와는 그 주로 말미암아 가인을 얻었다고 고백합니다. 사실 가인이라는 말은 ‘얻다’ ‘획득하다’의 뜻을 가집니다. / 그렇게 가인을 얻게 된 하와는 그 다음에 낳은 아들의 이름을 아벨이라 지었습니다. 그런데 ‘아벨’이라는 말의 뜻은 ‘허무함’ 또는 ‘공허함’입니다. 왜 하와는 가인의 동생 아벨을 공허하고 허무하다는 말로 이름을 지었을까요. / 성경은 그 이유를 언급하지 않습니다만 아담과 하와는 가인을 키우는 동안 무언가를 본 것이 틀림없습니다. 무언가를 깨달음에 틀림없을 것입니다. 그것은 인간의 죄가 아니겠습니까. / 하와는 “(잉태하는 고통으로) 수고하고”(창3:16) 가인을 낳고 키웠는데도 불구하고, 아담도 “얼굴에 땀을 흘리면서”(창3:19) 가인을 먹였는데도, 가인이 성장할수록 여러 모양으로 나타나는 인간의 죄를 보게 된 것이 아니겠습니까. / 인간이 얼마나 사악한 존재인가를 보았을 것입니다. 공허하고 허무하며 티끌과 같은 존재가 바로 인간임을 다시 한번 보게 된 그들은 아벨이라는 이름을 지었다고 상상해봅니다. 그 이름처럼 아벨은 형 가인의 손으로 아주 비참하게 죽임을 당하게 된 것이죠./ 어떻게 그런 일이 일어났는가 그 경위를 이제 살펴보겠습니다. 다시 2절말씀을 보면 가인과 아벨은 성장하여 그 은사에 따라 아벨은 양치는 자가 되었고 가인은 농사하는 자가 되었음을 알 수 있습니다.
- / 3절에서 5절전반부까지를 보겠습니다. “세월이 지난 후에 가인은 땅의 소산으로 제물을 삼아 여호와께 드렸고 아벨은 자기도 양의 첫 새끼와 그 기름으로 드렸더니 여호와께서 아벨과 그 제물은 열납하셨으나 가인과 그 제물은 열납하지 아니하신지라.”
- / 하나님은 왜 가인의 제물을 받지 않으셨는가? 이에 대한 해석은 여러 학자에 따라 갈라집니다. 예를 들어 곡식의 제물보다 동물의 제물을 더 하나님이 열납하신다는 해석이 있습니다. / 하지만 모세 율법에는 ‘소제’라고 불리는 곡식 제물을 드릴 때 정해야 할 규정이 많이 등장하므로 이 해석은 타당성이 없다고 할 수 있겠습니다. / 두 번째로 땅을 다스리는 자보다 양을 치는 자를 더 하나님이 기뻐하신다는 해석이 있습니다만 창세기2장15절에서 하나님은 아담에게 땅을 다스리도록 명령하셨고 하나님은 직업을 차별하시는 분이 아니라는 것이 명백한 사실입니다./ 세 번째로 중요한 것은 예배이며 가인과 아벨의 예배 차이가 각각의 제물의 차이로 나타났다는 해석이 있습니다. 아마 이 해석이 일방적으로 받아들여지는 입장일 것입니다. / 그러나 이런 해석들은 모두 ‘제물’에만 초점을 맞춘 해석이라 말할 수 있습니다. 여기서 우리가 두 가지를 생각해야 합니다. / 첫째로, 히브리서11장4절, “믿음으로 아벨은 가인보다 더 나은 제사를 하나님께 드림으로 의로운 자라 하시는 증거를 얻었으니 하나님이 그 예물에 대하여 증거하심이라”는 말씀을 볼 때 가인과 아벨의 차이는 믿음의 차이라는 점입니다. 게다가 그 믿음이 가시적(可視的)으로 제물에 나타났다는 것입니다. / 두번째로, 오늘 본문 4절과 5절을 보면 “아벨과 그 제물”은 받으셨지만 “가인과 그 제물”은 거절하셨다는 것을 알 수 있습니다. 다시 말해 제물보다 사람을 먼저 하나님이 주목하셨다는 점입니다. / 이 두 가지 점을 조합해보면 가인과 아벨의 믿음이 각각의 제물에 나타났으며 하나님은 둘의 믿음을 주목하셨다는 것을 볼 수 있습니다. / 한국어성경은 “열납하다”로 번역되어 있지만 정확한 번역은 일본어성경과 같이 “주시하다” “관심을 갖고 보다” 등의 번역이 맞습니다./
- 어쨌든 가인과 아벨의 믿음의 문제인데 그렇다면 이 둘의 믿음은 어떤 믿음이었을까. 본문에는 믿음이라는 말은 등장하지 않습니다만 우선 하나님이 “열납하시다”고 할 때 무슨 동기로 열납하시는가를 우리는 알아야 합니다. / 그래서 이 단어의 특징에 대해서 설명하고자 합니다. 히브리어로 ‘샤아’라고 하는 이 단어는 구약성경에 12번밖에 등장하지 않습니다. 그 대부분은 사람이 하나님을 볼 때 사용됩니다. / 예를 들어 사무엘하22장42절 말씀, “저희가 둘러보아도 구원할 자가 없었고 여호와께 부르짖어도 대답지 아니하셨나이다”고 할 때의 “둘러보다”, / 시편119편117절 “나를 붙드소서 그리하시면 내가 구원을 얻고 주의 율례에 항상 주의하리이다”고 할 때의 “주의하다”가 바로 본문의 “열납하다”와 같은 단어입니다. / 이와 같이 사람이 하나님 혹은 율례를 본다는 것은 깊은 관심을 갖고 신뢰하여 본다는 뉘앙스가 있습니다. 반면 이 단어는 사람이 사람을 볼 때도 사용됩니다. / 예를 들어 이사야서22장4절 말씀, “이러므로 내가 말하노니 돌이켜 나를 보지 말지어다 나는 슬피 통곡하겠노라 내 딸 백성이 패멸하였음을 인하여 나를 위로하려고 힘쓰지 말지니라”고 할 때의 “돌이키다”가 바로 ‘샤아’입니다. / 다른 번역은 “눈을 돌리다”도 있습니다. 돌이키다 혹은 눈을 돌린다는 것은 어떤 한 가지 대상만을 마음에 품고 관심을 가졌었다는 뉘앙스가 있다고 봅니다. / 그래서 이 말은 사람이 대상일 때는 “그 대상만을 쳐다본다”가 되겠고 하나님이 대상일 경우에는 “신뢰해서 바라본다”는 뜻이 됩니다. / 그렇다면 오늘 본문의 “열납하다(=보다)”는 어떨까요. 주어(主語)가 사람이 아닌 하나님인 경우는 오늘 본문에만 등장합니다만 그 뉘앙스는 똑같을 것입니다. / 즉 하나님은 아벨과 그 제물을 신뢰해서 본 것이고, 한 가지 일만 쳐다본다는 특징을 고려하면 아벨과 가인의 제물을 비교하지시는 않으셨다고 말할 수 있지 않겠습니까./
- 그런데 왜 하나님은 아벨과 그의 제물을 신뢰하여 보게 되신 걸까요. 그것은 아벨이 하나님을 신뢰하여 보았기 때문입니다. 하나님은 개개인의 행위에 따라 그와 똑같이 응답하시는 분입니다. / 구약성경 전체에서 일관되게 말씀하고 있죠. 이스라엘 백성이 불순종할 때마다 그 행위에 따라 하나님은 심판하셨습니다. / 그 외에도 예를 들어서 사무엘상 2장30절을 보면 “나를 존중히 여기는 자를 내가 존중히 여기고 나를 멸시하는 자를 내가 경멸히 여기리라”고 말씀하고 계시고, / 사무엘상 15장23절을 보면 사울에게 ”왕이 여호와의 말씀을 버렸으므로 여호와께서도 왕을 버려 왕이 되지 못하게 하셨나이다”고 말씀하신 바가 있습니다. / 이와 같은 하나님의 속성은 아벨과 가인에게도 변함없었을 것입니다. 아벨이 하나님을 보았기에 하나님도 아벨을 보셨고 가인은 하나님을 보지 않았으므로 하나님도 가인을 보지 않았다고 말할 수 있지 않겠습니까. / 그리고 무엇보다 두 형제의 마음이 각각의 제물에 들어난 것은 두말할 것 없는 사실입니다. 3절에서는 가인이 땅의 소산으로 제물을 드렸다는 기록이 있는 반면에, 4절에서는 아벨이 양의 첫 새끼와 기름으로 제물을 드렸다고 말합니다./ 이 “첫 새끼와 기름”은 가장 좋은 것을 뜻합니다. 그러나 한번 생각해보십시오. 양을 치던 아벨이 어느 날 갑자기 하나님께 가장 살찌고 가장 좋은 양을 제물로 드리기 위해서는 어떻게 해야 합니까./ 물론 양들의 숫자에 따라서 다르겠지만 저는 그가 평상시부터 하나님을 주시하고 있었다고 밖에 생각할 수 없습니다./ 다시 말해서, “이 양들 중에서 무엇을 드려야 하나님이 기뻐 받으실까?” 그렇게 늘 하나님을 생각하고 “이 양이 좋겠네”라고 미리 제물을 구별하지는 않았나 그런 생각이 드는 것입니다. / 아벨의 마음과 시선이 하나님께 고정되어 있지 않았더라면 “세월이 지난 후(3절)”인 그날에 가장 좋은 제물을 드리는 것은 어려웠을 것입니다. / 하나님만을 계속 바라본 아벨이니까 가능한 일인 것입니다. 하나님을 향한 아벨의 믿음과 감사가 그의 제물을 통해 보인 것입니다. / 아브라함이 이삭을 하나님께 바칠 때 이삭을 ‘번제’라고 말씀하셨습니다. 이것은 이삭을 드리는 아브라함의 순종과 믿음이 번제로 나타남과 동시에 자신의 목숨과 같은 아들을 바치는 아브라함에게는 자신을 희생할만큼 큰 순종이 있었음을 보여준 것입니다. / 이처럼 제물을 드리는 자와 그 제물은 하나로 결합이 됩니다. 일체화(一体化)가 일어나는 것입니다. / 이와 같이 하나님은 그 제물에 담겨지는 사람의 마음을 기뻐하십니다. 호세아서에서 주님은 “나는 인애를 원하고 제사를 원치 아니한다”고 말씀하셨습니다. / 제물보다 그 제물을 드리는 사람의 인애, 진실한 사랑을 기뻐하신다는 것입니다. 아벨이 드린 제물도 이런 제물이지 않았나 싶습니다. /
- 한편 가인은 어땠을까요. 5절에서 하나님한테 거절당한 것을 보고 “심히 분하여 안색이 변했다”고 말합니다. 왜 하나님이 거절하셨는가를 생각하지 않고 자신과 자신의 제물에 무슨 문제가 없었는지 살피지도 않은 가인은 나중에 아우 아벨을 죽이게 됩니다. / 자신을 돌이키지 못 했습니다. 여기서 이미 가인의 마음은 살인자의 과정을 밟고 있었습니다. 심히 분하여 안색이 변한 사실을 통해 알 수 있습니다. 안색이 변한다는 말은 하나님을 보지 못 하고 얼굴을 가려버린다는 말이기도 합니다. / 하나님으로부터 눈을 돌리는 것이 죄로 연결이 됩니다. 의로운 자는 아벨과 같이 하나님을 계속해서 보게 됩니다. 그러나 가인은 하나님을 보지(=신뢰하지) 않았습니다. / 그래서 하나님은 7절에서 이렇게 말씀하십니다. “네가 선을 행하면 어찌 낯을 들지 못하겠느냐.” / 낮을 든다는 것은 하나님과 얼굴을 맞대어 서로 보게 되는 일의 첫 단계입니다. 가인의 마음에는 이미 하나님은 볼 수 없는 상태인 죄가 있었던 것이죠. / 구약성경에서 “선을 행하다”라고 할 때는 반드시 문법적으로 미완료형으로 등장합니다. 아직 완료되지 않은 상태, 지금도 계속되고 있다는 말입니다. / 하나님 앞에서 선한 일이란 언제나 하나님을 신뢰하여 계속해서 바라보는 일이 아니겠습니까. 한순간이라도 눈을 돌리지 않는 것이지 않겠습니까. 가인에게 하나님은 말씀하셨습니다./ ”선을 행치 아니하면 죄가 문에 엎드리느니라 죄의 소원은 네게 있으나 너는 죄를 다스릴지니라.” 결국 죄를 다스리지 못 한 가인은 아벨을 죽이게 되는 것이죠./
- 아벨과 가인의 차이는 하나님을 늘 보고 있었는가 하는 점입니다. 하나님을 본다는 것이 믿음의 표현입니다. 따라서 오늘 설교 주제인 “하나님을 바라보는 믿음”이라는 것은 사실 “하나님은 본다=믿음”이기도 하는 것입니다. / 아벨과 가인은 큰 차이가 있는 반면에 공통점도 있습니다. 3절에 있듯이 “세월이 지난 후” 제물을 드린 날이 똑같이 찾아왔다는 점입니다. / 이 “세월이 지난 후”라는 말은 수확하는 날을 가리킵니다. 수확 날에 아벨과 가인은 하나님께 제물을 드렸습니다. 우리도 언젠가는 수확의 날을 맞이하게 될 것입니다. 그 날은 심판의 날이기도 하죠. / 이 날에 하나님이 우리와 우리의 제물을 열납하기 위해서는 우리가 어떤 태도를 가져야 하겠습니까. 그전에 우리의 제물이란 무엇일까요. / 매주 주일날 드리는 예배일까요. 아벨은 하나님께 최고의 것을 드렸습니다. 그러나 하나님이 그 제물보다 더 기뻐하신 것은 아벨의 믿음이었을 것입니다. 항상 하나님을 신뢰하고 하나님만을 바라본 그 믿음, 다시 말해 그의 인생 그 자체를 기뻐하셨습니다. / 제물보다 사람이 먼저인 것입니다. 하나님은 우리에게도 그러한 제물을 요구하시지 않을까요. 우리가 하나님께 드려야 할 제물은 우리의 삶, 우리의 일상이지 않을까요. 그것이 우리의 예배가 되어 그것을 통해 우리의 믿음을 드러내는 것입니다. /
- 이와 같이 우리의 믿음은 점(点)이 아닌 선(線)입니다. 하루가 아닌 매일인 것입니다. 점의 믿음이 아니라 선의 믿음을 갖기 위해서는 우리가 우리의 믿음을 잘 생각하야 합니다. / 가인처럼 무슨 일이 일어났을 때 화를 내고 얼굴을 피하는 것이 아니라 자신의 믿음에 무슨 문제가 있는 게 아닌가 계속해서 점검해 나가는 것이 중요한 것이죠. / 믿음은 추상적인 말입니다만 진정한 믿음은 구체적이고 실제적인 것, 눈에 보이는 믿음으로 나타나는 법입니다. / 예수님을 믿은 삭개오는 “내 소유의 절반을 가난한 자들에게 주겠사오며 만일 뉘 것을 토색한 일이 있으면 사 배나 갚겠다”는 아주 구체적인 결단을 고백했습니다. / 또한 백부장의 믿음을 보시고 예수님은 “이스라엘 중에서도 이만한 믿음은 만나지 못하였노라”고 말씀하셨습니다. / 믿음은 보이는 것입니다. 보여야 합니다. 믿음은 우리의 고백을 통해서도 나타나지만 가장 아름다운 것은 우리의 예배와 우리의 일상을 통해 드러날 때가 아니겠습니까./
- 지금은 사순절입니다. 우리가 가인처럼 악한 자에 속하는 것이 아니라 아벨처럼 하나님이 열납하시는 자로 살기 위해서는 그리스도를 늘 바라봐야 합니다. / 가인 편에 섰던 우리는 그리스도의 의로 말미암아 아벨과 같이 하나님께서 기뻐 받아주시는 존재가 되었기 때문입니다. / 민수기 21장에는 이스라엘 백성이 하나님과 모세를 원망하면서 “어찌하여 우리를 애굽에서 인도하여 올려서 이 광야에서 죽게 하는고 이곳에는 식물도 없고 물도 없도다 우리 마음이 이 박한 식물을 싫어하노라”고 불만을 쏟아 부었습니다. / 그러자 주님은 불뱀들을 보내어 물게 해서 많은 자들이 죽었습니다. 그러나 하나님은 모세에게 놋뱀을 만들게 하셔서 장대 위에 올려 물린 자마다 그것을 본 자는 살 것이라고 약속하십니다. 결국 보는 자마다 살게 된 것입니다. / 여러분 우리에게 이 놋뱀이란 무엇입니까. 요한복음3장14절에서 15절 말씀을 함께 보겠습니다. / “모세가 광야에서 뱀을 든 것 같이 인자도 들려야 하리니 이는 저를 믿는 자마다 영생을 얻게 하려 하심이니라.” / 우리를 위해, 우리 때문에, 들리신 분, 예수 그리스도를 바라봅시다. 예수 그리스도에 시선을 고정시킵시다. 그리하여 우리에게 주어진 믿음을 통해 예수님께 최고의 예배 최고의 인생을 드립시다. / 그것이 우리의 살 길이며 그것이 우리의 삶의 목적이기 때문입니다. 우리가 하나님과 이심전심(以心伝心)을 이룰 수 있다면 얼마나 좋을까요. 이심전심을 이루기 위해서는 상대방은 봐야 하죠. / 앞으로도 예수님과 늘 눈을 마주치고 시선을 돌리지 않는 그러한 에다가와 사랑의 교회의 예배공동체와 신앙공동체가 되시기를 간절히 기도합니다.