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マタイ 22章 15~22
22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
22:27 そして最後に、その妻も死にました。
22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」
22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。

 

今日はサドカイが登場します。パリサイ派が宗教的であるとすれば、サドカイ派はパリサイ派よりも政治的なので、ローマの支配勢力に協力して強大な既得権を独占していました。彼らはモーセ五書以外は何も認めていなかったし、パリサイ人たちとは違って、復活と永遠の命、霊的な存在をも信じていませんでした。現世がすべてだから、政治的影響力にそれほど執着したかもしれません。パリサイ人とはいつも対立関係にありましたが、今朝の本文では、イエス様という共同の敵を排除するために、彼らは渾然一体と協力しています。

 

彼らが提起した問題も、律法の解釈です。ユダヤ社会は兄が死ぬと、兄の名を継承するために弟が義理の姉と結婚します。これを「継代結婚」といいます。サドカイ人たちの質問は、七人の兄弟が順番に死に、継代結婚が繰り返された場合、復活後は、誰の妻になるかということです。継代結婚と復活は、このような矛盾を抱えているので、復活はないというのがサドカイ人の論理です。非常に幼児的な発想です。

 

継代結婚と復活が論理的に衝突するので復活はないはずだという論理の前に、天国はどんなところであり、復活は何なのかという質問がまずあるべきではないでしょうか?しかし、彼らは復活はないという揺るぎない信念に立ってすべてのことを考えます。見えるものだけを信じて、信じたいことだけを固く信じます。現実に基づいて考えると、霊の世界はフィクションだと思ってしまうのです。そのような人々は、宗教を無視して現実的な自分を合理的かつ理性的、科学的だと思い込みます。

 

しかし、うぬぼれている瞬間、自分がすべてを知っていると信じてしまう瞬間、合理も、理性も、科学も止まってしまいます。疑わない科学は科学ではありません。サドカイ人が律法と復活について、言葉の定義もないまま使っているように、いわゆる科学主義者も科学という言葉を定義せずに、むしろそこに完全な神格を与えていることに気づかなければなりません。科学的思考のになら、部分に対して部分的にしか知ることができません。

 

「物事の構造と性質を経験主義と自然主義的な立場から繰り返し観察し、それを通って得られた理論的な知識体系が科学」です。観察することができ、証明できるものがない場合、科学は無力です。しかし、目に見えないもの、観察することのできないことは無数に存在します。それに対してないと言ってしまう、間違っていると言ってしまいますが、実は、それは科学が解決できないだけです。

 

人が観察できるのは、復活ではなく、死です。それだけでもよく観察すれば人間の思いは変わります。死ぬことは科学的に証明することができますが、復活は証明できません。それがないと断言する人は、科学を知らない人です。それは科学の限界であり、神様の限界にはなりません。科学的な論理にとどまらず、霊的な思惟を広げなければなりません。神様の力は、生かすことにあります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」というのは、神様は復活の命に入らない人々に神と呼ばれることを拒否しておられるからです。