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出エジプト記 22章 1~15
22:1 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。
22:2 もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、 打った者に血の責任はない。
22:3 もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にある。盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし盗人が何も持っていなければ、盗みの代償としてその人自身が売られなければならない。
22:4 もしも、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗んだ物が生きたままで彼の手もとにあるのが確認されたなら、それを二倍にして償わなければならない。
22:5 人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。
22:6 また、火が出て茨に燃え移り、積み上げた穀物の束、刈られていない麦穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、その火を出した者は必ず償いをしなければならない。
22:7 人が金銭あるいは物品を隣人に預けて保管してもらい、それがその人の家から盗まれた場合、もしその盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。
22:8 もし盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならない。
22:9 所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。
22:10 人が、ろば、牛、羊、またいかなる家畜でも、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合、
22:11 隣人の所有物に決して手を触れなかったという主への誓いが、双方の間になければならない。その持ち主はこれを受け入れなければならない。隣人は償いをする必要はない。
22:12 しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければならない。
22:13 もしも、それが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければならない。かみ裂かれたものの償いをする必要はない。
22:14 人が隣人から家畜を借り、それが負傷するか死ぬかして、その持ち主が一緒にいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。
22:15 もし持ち主が一緒にいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りした家畜であれば、 その借り賃は払わなければならない。

 


牛や羊を盗んでそれを殺すか、売ってしまった場合、値の4,5倍を賠償しなければなりません。もし未だ自分の手元にある場合は2倍の賠償となります。他の規定に比べて盗む罪はより厳しいです。2倍から5倍までを賠償しなければならないし、賠償する能力がなければ自分の奴隷としてを売られるまで、その責任を履行しなければなりません。

 

聖徒は、自分の行動に責任を負う者であります。泥棒というのは他人のものを盗むと同時に、自分自身をだますものです。飢えてパンが盗む泥棒がいますが、一方、ネクタイをしめた泥棒や地位の高い泥棒も大勢います。泥棒は信用できません。

 

9節では、他人の物を預かって保管してから、それを欲しがり、自分の所有と主張した場合、それも泥棒なので2倍の賠償です。元の所有者が預けたのは信じていたからです。しかし、それを捨てて貪って信用できない者になりました。

 

5節では、自分が所有している家畜を放牧していて、その家畜が他人の畑やぶどう園に入って損害を負わせたならば、所有者は、自分の産物の中で最も良いものをもって賠償しなければなりません。読んでいると、律法の精神は、賠償の義務を重く、厳しくするためではなく、最も良いものを準備して、その中にあやまりの気持ちを込めるのです。

 

自分の畑に火をつけてその火が他の人の畑や穀物に害を与えた場合にも必ず賠償しなければなりません。ただし故意はないということで情状酌量はしますが、すでに損害が存在する限り責任は負わなければなりません。これはもしかして賠償という損ではなく、信用を守れる最後のチャンスかもしれません。

 

被害を与えた人に謝罪せず、補償もせず、神様に赦されたと言う場合がありますが、それは社会的にも信仰的にも容認できません。自分の心の中に偶像を作って、自分のために架空の神に言わせるだけです。バプテスマのヨハネが言われた通りに悔い改めるなら、悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。

 

この律法の意図に、共同体の信用を大切にしていることが分かります。お金にかかわる信用は大切ですが、信用は銀行のみが評価するものではありません。映画が終わるとスタッフの名前が画面に流されますが、これをクロージングクレジット(closing credits)と呼びます。映画監督ジョージ・ルーカスが青春グラフィティ(American Graffiti)という映画を撮りましたが、お金がなく、スタッフに報酬を与えなかったことで、すべてのステップの名前をエンディングにあげたことから始まった言葉です。

 

彼らはお金をもらえませんでしたが、皆で一緒に映画を完成しました。それぞれの欲ではなく、共同体の価値を共有する人はまさに信用できる人です。信用できる人たちによって映画は完成されました。信用できる共同体の一員として与えられた責任を果たし、その日にあるべきクロージングクレジットに自分の名前も上げられることを祈ります。