QT

ヨブ記 10章 1~12
10:1 私のたましいはいのちを忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、たましいの苦しみのうちに私は語ろう。
10:2 私は神にこう言おう。「私を不義に定めないでください。何のために私と争われるのかを教えてください。
10:3 あなたが人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、悪しき者たちのはかりごとに光を添えることは、あなたにとって良いことでしょうか。
10:4 あなたには肉の目があるのですか。あなたは人間が見るように見られるのですか。
10:5 あなたの日々は人間の日々のようなのですか。あなたの年は人の年のようなのですか。
10:6 それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。
10:7 私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。
10:8 あなたの手が私をかたどり、私を造られました。それなのに、私を滅ぼし尽くそうとされます。
10:9 思い出してください。あなたは私を粘土のようにして造られました。私を土のちりに戻そうとなさるのですか。
10:10 あなたは私を乳のように注ぎ出して、チーズのように固め、
10:11 皮と肉を私に着せて、骨と筋で編まれたではありませんか。
10:12 恵みをもって私にいのちを与え、あなたの顧みが私の霊を守りました。

 

インドのある青年が、自分を生んだという理由で自分の親を告訴したことが話題になったことがあります。自分の人生は痛みであり、その人生が始まった責任は、自分の同意も得ずに出産した、親にあるということです。とんでもないこじつけですが、その青年は、おそらく哲学の観点の一つ、社会運動の「反出生主義(anti-natalism)」に基づいている人です。

 

反出生主義とは、文字通り生まれることに反対し、否定する哲学です。生きることが痛みだからです。だからといって死ぬことを勧めているのでもありません。死も痛みだからです。ですから、反出生主義は痛みの問題です。苦しむ人間の混乱の哲学です。低出産、少子化の現象も出産と育児が苦痛であるという観点によるものです。

 

ヨブは反出生主義者のように、自分の出生を呪います。3章でも、ヨブは死にたいことを言いました。しかし、7章では、再び生きることの希望を言っています。10章に来て再び人生を懐疑し、死を願っています。ヨブは水火の苦しみの中で気絶を繰り返しているのです。

 

哲学が苦痛を考えるのではなく、痛みが哲学を産みます。ドイツの哲学者ショーペンハウアーが反出生主義者であることは、幼いときに親に虐待されたからです。痛みが耐えられないと生きていることを呪いますが、しばらくよくなって余裕ができると、再び生きる希望を持ちます。

 

痛みを乗り越えられないときがあります。頑張れという言葉に力はありません。鎮痛剤一粒が入って痛みを和らげると生きる希望を持ちはじめます。神様が少しだけヨブを助けてくださるならば、ヨブはきっと諦めたいという絶望から、生きる希望を抱くようになるでしょう。