QT

ヨブ記 21章 17~34
21:17 幾たび、悪者どものともしびが消え、破局が彼らの上に臨み、神が怒って彼らに滅びを分け与えられることか。
21:18 彼らは風の前の藁のようではないか。つむじ風が吹き散らす籾殻のようではないか。
21:19 神がそのような者の子らのために、わざわいを秘めておられるというのか。その人自身が報いを受けて、思い知らなければならないのだ。
21:20 その人自身の目が自分の滅びを見、自分が全能者の憤りを吞まなければならない。
21:21 自分の日数が限られているのに、なぜ自分の後の家のことを気にかけるのか。
21:22 人が神に知識を教えようとするのか。神は、高ぶる者たちにさばきを下されるのだ。
21:23 ある者は元気盛りの時に死ぬ。全く安らかに、平穏のうちに。
21:24 そのからだは脂ぎって、骨の髄まで潤っている。
21:25 しかし、ある者は苦悩のうちに死ぬ。幸せを味わうこともなく。
21:26 両者はともに土のちりに伏し、うじ虫が彼らをおおう。
21:27 確かに私は、あなたがたの計画を知っている。私を不当に扱おうとする企みを。
21:28 あなたがたは言う。「高貴な人の家はどこにあるか。悪しき者たちが住んだ天幕はどこにあるか」と。
21:29 あなたがたは道行く人たちに尋ねなかったのか。彼らの証しをよく調べたことはないのか。
21:30 悪人がわざわいの日を免れ、激しい怒りの日から連れ出されるというのか。
21:31 だれが面と向かって、彼の行くべき道を告げることができるのか。彼がしたことに対して、だれが報いることができるのか。
21:32 彼は墓場に運ばれ、その塚の上には見張りが立てられる。
21:33 谷の土くれは彼には快く、すべての人間が彼の後について行き、彼の先には数えきれない人がいる。
21:34 それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない。

 

自分が死ぬ存在であることを覚えているなら、直面していることが重要か重要ではないかをわきまえることができると思います。死を覚えると、私たちの貪欲と愚かさの多くのことがなくなるかもしれません。ヨブは本文の終わりに、「どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか」と言います。友人がヨブの心情を慰めたということではありません。友人はヨブの失われた財産、家族、健康などを惜しんいるだけです。彼らはいわゆる祈福と成功主義を信仰と同一視しました。だから、ヨブは「あなたたちが注目しているのは死ぬ人間にとって虚しいことではないか」と叱責しているのです。

 

本文でヨブの最後の発言は「あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない」です。つまり嘘だということです。友達が偽りを作り出して嘘をついているとは思いません。彼らは自分なりに自信を持って話しています。ところで怖いのは、それが偽だということです。意図的な嘘の言葉を言うだけが偽りではなく、真実を知らないのが偽りです。それを知ろうともしないことが偽りです。毎日のように人が死んでいく真理を目の当たりにて生きながら、自分はまるで死なないように生きるのが偽りです。生きたいから死を否定しますが、死を否定すると、生きる方法が見つかりません。

 

抗がんを拒否して闘病している老学者李御寧(イ・オリョン)先生は、死の過程を書き留めることができて幸せだと言いました。先生に与えられた残りの時間は、死に向かって行く人間の物語を執筆しています。私は死を経験した人の文を読んだことがありません。永遠に読めないです。死んでから天国に行ったきたという人たちの言葉は多いですが、死の真正な定義は、戻れない道を行ったことなので、それは死後の話ではありません。ということで、最も現実的な死に関する話というのは、李御寧先生が言うように死を考えて、その先に歩いていく人の話しです。

 

死を準備する彼は若者にこう言います。「若いからこそ、死を考えなさい」と。伝道の書でソロモンもそう言いました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に 伝道の書12:1」母が亡くなった後、病状日記を発見しました。死ぬかもしれないという恐れの中で神様に祈ったのは、子どもたちと別れるのが恐いとのことが書かれていました。忙しい日々、走り回っていますが、立ち止まって人生の中で何をすべきかを考え直さなければならないと思います。