QT

ヨブ記 42章 7~17
4:7 さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。
4:8 私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。
4:9 彼らは神の息吹によって滅び、御怒りの息によって消え失せる。
4:10 獅子のうなり声、たける獅子の声がする。しかし、若獅子の牙は砕かれる。
4:11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散っていく。
4:12 あることばが私に忍び寄り、そのささやきを私の耳がとらえた。
4:13 夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、
4:14 おののきと震えが私に降りかかり、私の骨々の多くがわなないた。
4:15 ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。
4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けられなかった。しかし、その姿は私の目の前にあった。静寂。そして私は次のような声を聞いた。
4:17 「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。

 

1章を思い出してみると、ヨブの栗閉まれたのは彼が犯した罪のためではありませんでした。ヨブの信仰の純度を試そうとしたサタンの計略のゆえです。そのように始まったヨブ記は、長い苦難を時間を過ぎ、今や神様からの溢れて回復と祝福で終わります。友人たちの因果応報の論理は明らかに誤解でしたが、原因と結果という関係が間違っているわけではありません。神様は、やがて報うべきものを報い、罰するものを罰します。

 

ヨブを懲らしめた神様は今度友人たちとエリファズを懲らしめられます。彼らが言ったことは、神様に対する理解として正しくないということです。自分の考えの中に神様を制限したことについて叱られるわけです。神様は友人たちに対して謝罪の意味のいけにえをささげるように命じられ、そこでヨブがとりなしの祈りをするようにと命じられます。神様はヨブの赦しととりなしの祈りを受け取り、喜ばれます。

 

以後、日常を回復したヨブを以前よりも祝福されます。苦しむ前にも巨富だったヨブは、苦しんだ後、二倍の祝福を受けて、回復します。ヨブの家には新しく7人の息子と3人の娘が生まれ、ヨブは息子と娘に公平に財産を分配しました。ヨブは苦しんだ後にも140年を生き,四代の子孫を産んで死にました。

 

ヨブの人生は、苦難さえも神様の主権の中にあるものであり、苦難の終わりと回復、そして祝福とある人生と死に至るまですべての過程が恵みであることを語っています。ヨブが正しいのか、友達が正しいのか、エリファズが正しいのかという長い議論は、神様が正しいという結論で結ばれます。ヨブの人生は、聖徒として召された人が主の主権の中で生きることを逆説しています。生きていることも、苦しむことも、栄光を受けることも、死ぬことさえもすべてが神様の恵みです。恵みの黙想で2021年の最後の日が終わって良かったです。