QT

Ⅱコリント 3:1~11
3:1 私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。
3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。
3:3 あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。
3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。
3:5 何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。

 

初代教会の時代に教会の教職者は、エルサレム教会から推薦状を受けて各教会に派遣されましたが、パウロの場合はエルサレム教会が正式に認めて派遣した教職ではなく、アンディオクでバルナバによってピックアップされ、最も早い時期に広範な地域に教会を開拓し始めた実際の宣教師です。問題が生じたのは、コリント教会を離間した人々により、パウロに不満を抱いた一部の人々がパウロにエルサレム教会の派遣状がないということでパウロの使徒権を否定したことです。

 

ここにパウロは、コリント教会の聖徒たちに対して「キリストの手紙」と言いました。つまり、コリント教会の聖徒たちにがパウロの推薦状になるということです。コリント教会は、パウロが開拓し、形成した教会です。彼らが福音を知り、福音による生きるなら、パウロは確かに福音伝道者であり、もし、彼らの信仰が偽りであるなら、パウロの使徒権云々する理由も資格もないわけです。

 

「キリストの手紙」ということは、真実の中身のことを言います。昨日の本文に聖徒を「キリストの香り」と言ったことに続き、パウロはその真実を表していることを「手紙」にたとえているのです。私たちは、本日も腕を広げ、足で歩き回りますが、本物には本物の香りが、本物の手紙にはその真実の内容が伝わります。聖徒の信仰が、隠せない香ばしい香りになり、世に伝える真実な手紙になることを祈ります。