ヨハネによる福音書 黙想 【説明しない】 20250129(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 8:21~30 8:21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」 8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」 8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 8:24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」 8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。 8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」 8:27 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。 8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 8:29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」 8:30 イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。 イエス様は、ご自身が行かれる所にユダヤ人たちは来ることができず、彼らは罪の中で死ぬと言われました。人々はイエス様のお言葉を理解できませんでしたが、続けてイエス様はご自身が世に属しておられないため、自分を信じない人々は罪の中で死ぬと警告されました。イエス様はただ父なる神様から受けた御言葉だけを伝え、神様の御心を行うと言われました。これをを聞いて多くの人々が信じるようになりました。 福音を知っており、今この本文を読んでいる私たちは、簡単な解説を通じてこの御言葉の意味を理解することができます。しかし、当時、基礎的な情報を持っていない人々にとっては、イエス様の言葉を確実に理解するのは難しかったことでしょう。なぜなら、イエス様はわかりやすく説明したり、納得させようとされたのではなく、ただ宣言されていたからです。 今日の本文でイエス様が語られたことはすべて真理です。真理の本質は客観的であり、絶対的なものです。それが真理の本質であり、その真理の伝達方法は「宣言」です。説明は宣言を補完することはできますが、本質ではありません。イエス様が神様であり、イエス様を信じなければ罪の中で滅びること、そしてイエス様がなされているすべての御業が神様の御業であるという事実は、説明して同意を求めるのではなく、宣言されるべきことです。 30節で信じた多くの人々は、理解したのではなく、宣言を受け入れたのです。神様から与えられた信仰とはそのようなものです。真理は宣言され、人間には信仰が求められます。それは、人間の論理や説明が神様を証明する道具になることができないからです。それは非知性的で盲目的な信仰を強いるものとは異なります。ジェームズ・パッカーはその名著『神を知る知識(Knowin God)』で、「福音の真理は論理的な説明を通じて説得するものではなく、神の権威によって宣言されるものであり、それは信者に信仰と決断を求めるものである」と述べました。説明は論拠と論証に依存しますが、宣言は真理に依存し、信仰によって行われます。教会に委ねられた役割の核心は、神様の権威と福音の宣言です。

요한복음 묵상 【설명하지 않는다】 20250129(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:21~30 8:21 다시 이르시되 내가 가리니 너희가 나를 찾다가 너희 죄 가운데서 죽겠고 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 8:22 유대인들이 가로되 저가 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 하니 저가 자결하려는가 8:23 예수께서 가라사대 너희는 아래서 났고 나는 위에서 났으며 너희는 이 세상에 속하였고 나는 이 세상에 속하지 아니하였느니라 8:24 이러므로 내가 너희에게…

ヨハネによる福音書 黙想 【どこから来て、どこへ行くのか】 20250128(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 8:12~20 8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 8:13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」 8:14 イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。 8:15 あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 8:16 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。 8:17 あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。 8:18 わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」 8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」 8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 イエス様がご自身を「世の光」であると語られると、パリサイ人たちは「自己賛美」に過ぎず、信用できないと反発しました。イエス様は暗闇の中で光となる希望について語られましたが、彼らがそれを受け入れなかったため、今度は始まりと終わりについて語られました。イエス様は、ご自身がどこから来て、どこへ行くのかをご存じであると仰せになりました。これはパリサイ人たちに、自分たちの人生がどこから来て、どこへ向かうのかを知らないという無知を自覚させるためのものでした。 パリサイ人たちは、自分たちに光がなければ何も見ることができないという無力さを認識すべきでした。誰も自分がどこから来たのか、どこへ向かっているのかを知りません。それこそが、人間が神様を信じざるを得ない切迫した理由なのです。人間は自分の起源、目的、そして結果について知ることができないため、真理に至る唯一の道、すなわち信仰を通じてのみ答えを見出すことができます。 「私たちが地球に存在している状況は奇妙だ。私たちは誰も望まれることなく、招かれることもなく、ただ一時的にここに留まり、なぜここにいるのかを知らない。」これはアルベルト・アインシュタインの言葉です。彼は光、時間、空間の秘密を解き明かし、物理学の基礎を刷新した偉大な科学者です。しかし、彼自身もどこから来たのか、どこへ行くのか、そしてなぜここにいるのかを知らないと語りました。それは無能や無知ではありません。「知らない」ということを知ることこそが、科学的発見を超える人間の偉大な発見です。人間は必ず「知らない」という壁にぶつかるようになっており、そこで初めて信仰と告白が始まります。人間の暗闇と無知の絶望を通らずして、光と起源について知ることはできないのです。 どこから来てどこへ行くのかを知っている人は誰もいません。しかし、時空を超越する神であるイエス様は、すべての始まりと終わりをご存じです。イエス様は、私がどこから来て、どこへ向かっているのかもご存じです。イエス様が語られる「始まりと終わり」は時間の境界ではなく、人間存在の意味を含んでいます。イエス様はアルファでありオメガであり、人間の始まりと目的、そしてその終わりを知っておられるお方です。魂はその中で安心を得、その告白の中で平安を得ます。

요한복음 묵상 【어디서 왔다가 어디로 가는가】 20250128(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:12~20 8:12 예수께서 또 일러 가라사대 나는 세상의 빛이니 나를 따르는 자는 어두움에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻으리라 8:13 바리새인들이 가로되 네가 너를 위하여 증거하니 네 증거는 참되지 아니하도다 8:14 예수께서 대답하여 가라사대 내가 나를 위하여 증거하여도 내 증거가 참되니 나는 내가 어디서 오며 어디로 가는 것을 앎이어니와 너희는 내가 어디서 오며 어디로 가는…

ヨハネによる福音書 黙想 【良心を生かす奇跡】 20250127(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 7:53~8:11 7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。 8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕 イエス様がオリーブ山におられたとき、律法学者たちとパリサイ人たちは姦淫の現場で捕まった女性をイエスのもとに連れてきて、「律法に従ってこの女性を石打ちにすべきだ」と言いました。イエス様は身をかがめて地面に何かを書きながら、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。その言葉を聞いた人々は良心の呵責を覚え、一人ずつその場を立ち去り、最後にはイエスと女性だけが残りました。イエス様はその女性をも裁かず、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われ、彼女を送り出されました。 ユダヤ人たちが姦淫した女性をイエス様のもとに連れてきたのは、ユダヤの律法とローマの法の矛盾を利用してイエス様を困難な状況に追い込むための罠でした。レビ記や申命記では姦淫した女性を石打ちの刑にするよう定められています。しかし当時、死刑執行権はローマが握っていたため、イエスがユダヤ律法を擁護すればローマへの越権行為となり、逆にそれを否定すれば律法違反となるジレンマに陥る仕組みでした。 この女性はユダヤ人たちのこうした策略に巻き込まれた被害者だったのかもしれません。また、姦淫の相手である男性は連れてこられませんでした。もしかするとその男性は、女性を姦淫の現行犯として捕まえるために近づいた者の可能性も考えられます。もしそうだとすれば、この事件は恋愛による不倫や情事ではなく、生計を立てるための性売買に関わる出来事だった可能性が高いでしょう。そうでなければ、ユダヤ人たちがタイミングよく、しかもイエス様がいる現場で姦淫の現行犯を捕まえることはできなかったはずです。 この本文を読むたびに、いくつかの疑問が湧いてきました。まず、イエス様が身をかがめて指で地面に書いたものは何だったのか?指で書いたということは、詳細な文章ではなく、簡潔な何かだったのだと思われます。それはどんな内容で、誰に向けたメッセージだったのか?さらに、イエス様に敵対していたユダヤ人たちがなぜ石を置き、素直に立ち去ったのか?それはイエス様が地面に書いた内容と関係があったのでしょうか? はっきりしているのは、イエス様が地面に何かを書かれた後、人々の態度が変わったことです。イエス様を陥れ、罠にかけようと集まっていた人々が良心の呵責を覚え、立ち去ったのです。その過程でイエス様は「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われました。もし偏見に満ち、煽動され、感情が高ぶっている人々であれば、ためらうことなく石を手に取り投げたでしょう。しかし彼らはそうしませんでした。それは、イエス様が地面に書かれた何かを見て、良心が働き始めたからではないでしょうか。 年長者から順に自分の罪を悟り、最後に若者が立ち去りました。地面に何が書かれていたかは分かりませんが、本文に記されたいくつかの手がかりを考えると、人間の良心が目覚めるなら、滅びを免れることができるということを示しています。この女性はユダヤ人たちの政治的陰謀に巻き込まれた犠牲者だった可能性があります。政治的な策略、卑劣な妨害、暴力と破壊が支配する世界の中でも、もし一つの良心が目覚めるなら、滅びることなく勝利することができるのです。イエス様が地面に指で書かれたものは分かりませんが、それは確かに彼らの良心を呼び覚ますものでした。 神様の御言葉を聞いても良心が痛まない人こそ、最も不幸な人です。彼らは罠を仕掛けても自らその罠に落ちるでしょう。しかし、心が刺され、良心の呵責を覚えた人は、手に持った石をおろすべきです。良心が戻れば、闘争的で暴力的だった人々の正気も戻るでしょう。そして、神様の憐れみと救いを思い起こし、共に生きるべき価値について考えるようになるでしょう。これは「姦淫してもゆるされる」という教訓ではなく、良心さえ生きていれば、滅びる人を救うことができるという教訓として読むべきです。これはイエス様が起こされたもう一つの奇跡の物語であり、その奇跡は人々に良心の呵責を感じさせるものでした。

요한복음 묵상 【양심을 살리는 기적】 20250127(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 7:53~8:11 7:53 (다 각각 집으로 돌아가고 8:1 예수는 감람산으로 가시다 8:2 아침에 다시 성전으로 들어오시니 백성이 다 나아오는지라 앉으사 저희를 가르치시더니 8:3 서기관들과 바리새인들이 간음 중에 잡힌 여자를 끌고 와서 가운데 세우고 8:4 예수께 말하되 선생이여 이 여자가 간음하다가 현장에서 잡혔나이다 8:5 모세는 율법에 이러한 여자를 돌로 치라 명하였거니와 선생은 어떻게 말하겠나이까 8:6 저희가…

ヨハネの福音書 黙想 【無駄な知識】 20250125(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 7:25-36 7:25 さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。 7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。 7:27 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」 7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。 7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」 7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 7:31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。 7:32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。 7:33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。 7:34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」 7:35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。 7:36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」  あるエルサレムの人がイエス様について、あの人はキリストではないと主張します。 そして、その最も中心となる根拠は、「キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」ということでした。 確かに聖書はそう言っています。    しかし、彼らはイエス様がどこから来たのか、はっきり知っていると確信していました。 実際、彼らはイエス様の出身についてよく知っています。 ベツレヘムで生まれたナザレ人、ヨセフの子イエス。 それが彼らが知っているイエス様の出身でした。  しかし、彼らはイエス様がこの地に来られる前、誰と一緒にいて、誰から遣わされたのかは分かりませんでした。 そのため、イエス様が私を遣わされた方のもとに行く、私を見つけることも、私がいるところに来ることもできないとおっしゃった時に、文字通り誰もその言葉を理解することも、イエス様が戻るところが一体どこなのかも分かりませんでした。 まさに聖書の言うとおりでした。  彼らが持っている知識は無駄な知識でした。 世の中では「本を読んでいない人より、本を一冊だけ読んだ人が恐ろしい」と言われています。 本を読むことで知識が広がるどころか、逆にその知識の幅が狭くなってしまうからです。 それは、むしろなかった方が良い無駄な知識です。  エルサレムの人とユダヤ人たちが持っていた知識がこのようなものでした。 律法に詳しく、預言者たちの預言についても知っていたが、それがイエス様のことを指しているという結論に至らないまま、自分が知っていることを語ることで、むしろ自分が知らないということを証明することになってしまったのです。  私たちはイエス様を正しく知っているでしょうか。 イエス様に対する無駄な知識ではなく、真の知識を持っているでしょうか。 私たちは、私たちの知識を確認してみる必要があります。 自分が持っているイエス様に対する知識、そして聖書が語っているイエス様が一致しているのか、御言葉を通して答え合わせをしてみなければなりません。 https://youtu.be/DqVYQ6ZKU_o

요한복음 묵상 【헛된 지식】 20250125(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 7:25-36 7:25 예루살렘 사람 중에서 어떤 사람이 말하되 이는 그들이 죽이고자 하는 그 사람이 아니냐 7:26 보라 드러나게 말하되 그들이 아무 말도 아니하는도다 당국자들은 이 사람을 참으로 그리스도인 줄 알았는가 7:27 그러나 우리는 이 사람이 어디서 왔는지 아노라 그리스도께서 오실 때에는 어디서 오시는지 아는 자가 없으리라 하는지라 7:28 예수께서 성전에서 가르치시며 외쳐 이르시되 너희가…

ヨハネの福音書 黙想 【無駄な学び】 20250124(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 7:14-24 7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。 7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」 7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。 7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。 7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。 7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」 7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」 7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。 7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。 7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。 7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」  イエス様の時代に専門的な学びの機会は誰にでも与えられるものではありませんでした。 上流級や特別な人々、ユダヤ人の中では彼らの専門学堂に入ってこそ「学んだ」と言えるほどのものでした。    今日の箇所でイエス様が学んだこともないということ、どうして学問があるのかという表現はこのようなものです。 ユダヤ人たちは基本的に自分たちの言語、ヘブライ語で聖書を読まなければならず、それを何よりも最優先にして子供たちを教育させたので、字を読めないということはありえないことで、聖書の内容を分からないということもありえないことです。    イエス様がどうして学問があるのか、どうして自分たちのユダヤ人の学堂で学んだこともないのに、学んだ者のように教えられるのか、ということです。 このように当時のイエス様の教えは、単純に聖書を読み、その預言を再確認することを越え、その御言葉について専門的に学ぶ者たちが見ても優れたものとされるほど、そして、人の教えではないと思われるほどの教えでした。 しかし、これは当然なことです。 イエス様は自分自身に対する御言葉、神様の御言葉をそのまま伝えただけであるためです。    一方、今日の箇所のユダヤ人たちは、自分たちが誇る学堂で、高い水準の教育を受けてきたはずです。 そして将来には律法学者として、誰かは祭司と大祭司などの、ユダヤ人の指導者に成長する者たちだったはずです。 そのような者たちに、田舎出身のイエス様が「あなたがたはだれも律法を守っていません」と言われたのです。    彼らはモーゼの律法を学び、それに従って生きながらも、真の律法を守ることができませんでした。 彼らはその律法の本当の意味を知らなかったからです。 彼らの学びは無駄な学びだったのです。    私たちの学びも、いつでも無駄になりかねません。 私たちの学びは文字を越えて頭で理解し、心で受け入れ、生き方として生きていく時にやがて真の学びの意味が現れます。 その人生を通してイエス・キリストを表わす時に、私たちが学んだことが無駄なことにならないのです。    私たちは何を学びましたか。 私たちはなぜ学びましたか。 私たちはイエス・·キリストの福音を、救いのために学びました。 学んで確信したところにとどまって、そのことを実践すること、他の人々に伝えること、 私たちがそのために学んだのです。 https://youtu.be/DqVYQ6ZKU_o?si=bPrJU0tfnLC7n5_Z

요한복음 묵상 【헛된 배움】 20250124(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 7:14-24 7:14 이미 명절의 중간이 되어 예수께서 성전에 올라가사 가르치시니 7:15 유대인들이 놀랍게 여겨 이르되 이 사람은 배우지 아니하였거늘 어떻게 글을 아느냐 하니 7:16 예수께서 대답하여 이르시되 내 교훈은 내 것이 아니요 나를 보내신 이의 것이니라 7:17 사람이 하나님의 뜻을 행하려 하면 이 교훈이 하나님께로부터 왔는지 내가 스스로 말함인지 알리라 7:18 스스로 말하는 자는…