民数記 黙想 【迂回道】 20250509(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

民数記 21:1-9 21:1 ネゲブに住んでいたカナン人アラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来たと聞いた。彼はイスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえた。 21:2 そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」 21:3 主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、イスラエルはカナン人とその町々を聖絶した。そしてその場所の名をホルマと呼んだ。 21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、 21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」 21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。 21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。 21:8 すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」 21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。  イスラエルの民は荒野で長い時を過ごしました。その長い時間の中で神様の数え切れないほどの奇跡を目の当たりにし、神様の導きのもとで生きてきました。それにもかかわらず、現実を前にすると、神様を疑い、つぶやく心が彼らの中にしばしば芽生えてしまいました。    今日の本文を二つの段落に分けると、ネゲブに住むアラドの王の町々をすべて滅ぼし、その場所を「ホルマ」と呼ぶ場面と、民数記の代表的な出来事の一つである「青銅の蛇」の出来事に分かれます。    イスラエルの民はアラドの王の仕打ちに対して、神様に誓いを立て、その王とその町々を滅ぼすことができました。そして、そのすべてが神様の御業であることを、彼ら自身も分かっていたに違いありません。なぜなら、その場所に「ホルマ(献げられた場所)」という名前をつけたからです。    戦争という大きな試練を神様の御手によって無事に乗り越えたイスラエルの民でしたが、その後、神様に不平を言い始めました。その理由は非常に単純でした。神様が導かれる「道」が、彼らの気に入らなかったのです。  荒野の道は、私たちが想像する以上に過酷で疲れる道だったに違いありません。しかし、そのような過酷な道のりすら、イスラエルの民は神様の力によって乗り越えることができました。それにもかかわらず、目の前の「道」によって神様を恨むようになったのです。その迂回道を受け入れられなかったことが、今まで受けてきた恵みをすべて忘れさせる罪の始まりとなったのです。  私たちもまた、自分の人生を振り返ってみると、そこには数多くの神様の恵みがあったことに気づかされます。振り返れば、すべての出来事が感謝の対象となっているのです。しかし、目の前にある現実、そしてその現実の中に神様が働いておられないように感じてしまう時、私たちはこれまでのすべてを忘れてしまいます。あるいは、すでに忘れてしまっているからこそ、今この時に働いておられる神様を見ることができないのです。  神様の御業は、私たちの考えや感覚ではすべてを理解することはできません。迂回していく道に感じても、少し遅いと思われても、遠く感じても、神様は最善の時にその御業を成し遂げてくださるために、今も私たちの日々の中で働いておられるのです。 https://youtu.be/l8-Dp_psNhA?si=mNX7gjoPAX18M-zt

민수기 묵상 【우회하는 길】 20250509(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

민수기 21:1-9 21:1 네겝에 거주하는 가나안 사람 곧 아랏의 왕이 이스라엘이 아다림 길로 온다 함을 듣고 이스라엘을 쳐서 그 중 몇 사람을 사로잡은지라 21:2 이스라엘이 여호와께 서원하여 이르되 주께서 만일 이 백성을 내 손에 넘기시면 내가 그들의 성읍을 다 멸하리이다 21:3 여호와께서 이스라엘의 목소리를 들으시고 가나안 사람을 그들의 손에 넘기시매 그들과 그들의 성읍을 다 멸하니라…

民数記 黙想 【アロンの死、怒りの根】 20250506(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 20:22~29 20:22 イスラエルの全会衆はカデシュを旅立ち、ホル山に着いた。 20:23 主は、エドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンにお告げになった。 20:24 「アロンは自分の民に加えられる。彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命に逆らったからである。 20:25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。 20:26 アロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せよ。アロンは自分の民に加えられ、そこで死ぬ。」 20:27 モーセは、主が命じられたとおりに行った。彼らは、全会衆の見ている前でホル山に登って行った。 20:28 モーセはアロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から下りて来たとき、 20:29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。   イスラエルがカデシュを出発してホル山に到着したとき、神様はアロンの死を命じられました。その理由は、メリバの出来事において神様の言葉に逆らったからです。アロンの祭司の衣はエルアザルに引き継がれ、アロンは山の頂で息を引き取りました。アロンはモーセの実の兄であり、モーセはこのリーダーシップの空白を避けられなかったでしょう。アロンの不在は民にも混乱をもたらしたはずです。重要な役割を果たしていた人物の死です。聖書本文は、アロンの死の理由を「メリバで神様の言葉に逆らったから」と明確に述べています。 しかし、その「逆らい」がアロンによってどのように現れたのかは、本文では具体的に描かれていません。メリバの場面を思い返すと、イスラエルの民は水がなくて不満を言い、神様はモーセに「岩に命じて水を出せ」と語られました。しかしモーセは怒り、杖で岩を二度打ちながら言いました。「…私たちがあなたがたのために、この岩から水を出せというのか」(民数記20:10)。水はすぐに湧き出ました。民は渇きを癒しましたが、神様は直ちにモーセとアロンの両者に責任を問われました。メリバの物語の最初から最後まで、モーセとアロンは一つとして語られています。神様もお二人に同時に語られ、モーセが怒りを表すときも「私」ではなく「私たち」と言いました。 モーセだけが間違ったのではなく、アロンにも自発的で積極的な関与があったのです。彼らは強い一体感の中で、民に対する怒りを共に蓄積していたのでしょう。モーセの怒りは単なる突発的な感情ではなく、アロンの不平や感情的な共鳴によって刺激され、煽られた結果だったかもしれません。もしそうであるなら、モーセの怒りは単なる爆発ではなく、二人のリーダーが共に築き上げた挫折と不信の結実でした。民の前で怒るという行為だけでなく、彼らの間で交わされた全ての言葉と沈黙、感情と表情がすでに行動となり、それが神様の聖なる御名を汚す結果となったのです。神様はこの感情の共鳴と怒りの連帯を「聖なるものを現さなかった」と見なされ、アロンはその責任を負って山の上で命を終えました。

민수기 묵상 【아론의 죽음, 분노의 뿌리】 20250508(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 20:22~29 20:22 이스라엘 자손 곧 온 회중이 가데스에서 진행하여 호르산에 이르렀더니 20:23 여호와께서 에돔 땅 변경 호르산에서 모세와 아론에게 말씀하시니라 가라사대 20:24 아론은 그 열조에게로 돌아가고 내가 이스라엘 자손에게 준 땅에는 들어가지 못하리니 이는 너희가 므리바 물에서 내 말을 거역한 연고니라 20:25 너는 아론과 그 아들 엘르아살을 데리고 호르산에 올라 20:26 아론의 옷을 벗겨…

民数記 黙想 【断られる道】 20250507(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 20:14~21 20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを遣わして言った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。 20:15 私たちの先祖はエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖を虐待しました。 20:16 私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、一人の御使いを遣わし、私たちをエジプトから導き出されました。今、私たちはあなたの領土の境界にある町、カデシュにおります。 20:17 どうか、あなたの土地を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは『王の道』を行き、あなたの領土を通過するまでは、右にも左にもそれません。」 20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」 20:19 イスラエルの子らはエドムに言った。「私たちは大路を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。歩いて通り過ぎるだけですから、何事でもないでしょう。」 20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。 20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせることを拒んだので、イスラエルは彼のところから向きを変えた。   モーセはカデシュで渇きに苦しむ民のために水を出さなければなりませんでした。神様の命令では、岩に向かって語るだけでよかったのですが、モーセは不平を言う民に対する怒りを抑えきれず、岩を二度打ち叩いてしまいました。この出来事をきっかけに、神様はモーセがカナンの地に入ることはできないと宣言されました。モーセはまさに神様の預言者であり、代理人でした。民の前に神様の聖さと御心を表す存在であったのです。神様は、モーセがご自身の聖さを表せなかったことに対して、その責任を問われたのです。 怒りの感情を制することが重要な教訓であるのは言うまでもありません。しかし私は、モーセの立場に立って弁護したくなります。彼がどれほど多くを耐えてきたかを知っているからです。民はまるで蚊の群れのように執拗にモーセを責め立てました。モーセはエジプトの王子であった時代から短気で、エジプト人を打ち殺したこともあります。出エジプト後、荒野の中で彼は何度も感情を爆発させました。モーセとはそういう人だったのです。私たちは、時が経ち、訓練を積めば彼は柔和になったと期待しますが、私たち自身がそうでないように、モーセも完全に変わることはなかったのです。モーセを低く見るつもりはありません。むしろ、変わったと言い切る人の言葉を私は信じません。 ある牧師が自分を神様の代理人、そして他の誰とも共有しない「主のしもべ」と呼ぶならば、その真偽を問わず、彼は神様のすべてを反映する鏡のような立場に立たざるを得ません。それが善意であれ、悪意であれ、知らずにであれ、彼の言葉、態度、感情は神様を映し出す反射面となります。権威を主張するならば、責任も免れられません。そして、そのような指導者に教育された人々は、彼を通して神様の力、公義、慈しみ、忍耐、愛を期待するのです。しかし、その期待は時に指導者を神格化し、また時には失望と怒りをもたらして共同体を傷つけることになります。鏡が著しく歪められたならば、神様はその鏡を砕かれることもあります。そしてその破片は共同体を刺し、血を流させるのです。 反対側もまた反省すべきです。民もモーセに対する態度において節度と尊重が必要でした。指導者に多くの責任が求められるのは当然のことですが、尊敬なしに不平と非難だけがあったとすれば、モーセの爆発は時間の問題だったのです。もし民が神様を恐れる心を持ち、モーセを敬う態度で接していたならば、モーセもその瞬間の感情を抑えることができたかもしれません。モーセ自身もまた「神の聖さを表さねばならない」という強迫観念ではなく、民をより深く愛し、敬意を持って包み込んでいたならば、結果は変わっていたかもしれません。互いの責任の中で神の聖さをともに反映するべきだったのです。すべてのクリスチャンは、神の聖さをこの世に映し出す存在として召された聖徒です。信仰とは、完全さに到達した状態ではなく、不完全さの中を共に歩む旅路です。 驚くべきことに、その旅路の果てにおいて神様はモーセを「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。民数記12:3」。これは、モーセが感情を完全に制御できたという意味ではありません。挫折と失敗、怒りと後悔がありましたが、彼は神様を見失わず、信仰を貫いた人だったのです。神様の基準における「柔和」とは、感情を抑圧し切ることではなく、神の重い使命を担いながらもそれに耐え続けた魂の向きであると言えるでしょう。本日の本文から私たちが受け取るべき教訓は、「怒れば裁かれる」という非現実的な要求ではありません。むしろ、神を畏れる心と、互いに対する敬意と尊重の現実的な配慮の中で、共同体と使命が守られるのだということなのです。

민수기 묵상 【거절의 길】 20250507(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 20:14~21 20:14 모세가 가데스에서 에돔 왕에게 사자를 보내며 이르되 당신의 형제 이스라엘의 말에 우리의 당한 모든 고난을 당신도 아시거니와 20:15 우리 열조가 애굽으로 내려갔으므로 우리가 애굽에 오래 거하였더니 애굽인이 우리 열조와 우리를 학대하였으므로 20:16 우리가 여호와께 부르짖었더니 우리 소리를 들으시고 천사를 보내사 우리를 애굽에서 인도하여 내셨나이다 이제 우리가 당신의 변방 모퉁이 한 성읍 가데스에…

민수기 묵상 【분노와 거룩 사이】 20250506(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 20:1~13 20:1 정월에 이스라엘 자손 곧 온 회중이 신 광야에 이르러서 백성이 가데스에 거하더니 미리암이 거기서 죽으매 거기 장사하니라 20:2 회중이 물이 없으므로 모여서 모세와 아론을 공박하니라 20:3 백성이 모세와 다투어 말하여 가로되 우리 형제들이 여호와 앞에서 죽을 때에 우리도 죽었더면 좋을 뻔 하였도다 20:4 너희가 어찌하여 여호와의 총회를 이 광야로 인도하여 올려서 우리와…

民数記 黙想 【怒りと聖さのはざまで】 20250506(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 20:1~13 20:1 イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。 20:2 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。 20:3  民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。 20:4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。 20:5 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」 20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。 20:7 主はモーセに告げられた。 20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」 20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。 20:10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」 20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。 20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 20:13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。   モーセはカデシュで渇きに苦しむ民のために水を出さなければなりませんでした。神様の命令では、岩に向かって語るだけでよかったのですが、モーセは不平を言う民に対する怒りを抑えきれず、岩を二度打ち叩いてしまいました。この出来事をきっかけに、神様はモーセがカナンの地に入ることはできないと宣言されました。モーセはまさに神様の預言者であり、代理人でした。民の前に神様の聖さと御心を表す存在であったのです。神様は、モーセがご自身の聖さを表せなかったことに対して、その責任を問われたのです。 怒りの感情を制することが重要な教訓であるのは言うまでもありません。しかし私は、モーセの立場に立って弁護したくなります。彼がどれほど多くを耐えてきたかを知っているからです。民はまるで蚊の群れのように執拗にモーセを責め立てました。モーセはエジプトの王子であった時代から短気で、エジプト人を打ち殺したこともあります。出エジプト後、荒野の中で彼は何度も感情を爆発させました。モーセとはそういう人だったのです。私たちは、時が経ち、訓練を積めば彼は柔和になったと期待しますが、私たち自身がそうでないように、モーセも完全に変わることはなかったのです。モーセを低く見るつもりはありません。むしろ、変わったと言い切る人の言葉を私は信じません。 ある牧師が自分を神様の代理人、そして他の誰とも共有しない「主のしもべ」と呼ぶならば、その真偽を問わず、彼は神様のすべてを反映する鏡のような立場に立たざるを得ません。それが善意であれ、悪意であれ、知らずにであれ、彼の言葉、態度、感情は神様を映し出す反射面となります。権威を主張するならば、責任も免れられません。そして、そのような指導者に教育された人々は、彼を通して神様の力、公義、慈しみ、忍耐、愛を期待するのです。しかし、その期待は時に指導者を神格化し、また時には失望と怒りをもたらして共同体を傷つけることになります。鏡が著しく歪められたならば、神様はその鏡を砕かれることもあります。そしてその破片は共同体を刺し、血を流させるのです。 反対側もまた反省すべきです。民もモーセに対する態度において節度と尊重が必要でした。指導者に多くの責任が求められるのは当然のことですが、尊敬なしに不平と非難だけがあったとすれば、モーセの爆発は時間の問題だったのです。もし民が神様を恐れる心を持ち、モーセを敬う態度で接していたならば、モーセもその瞬間の感情を抑えることができたかもしれません。モーセ自身もまた「神の聖さを表さねばならない」という強迫観念ではなく、民をより深く愛し、敬意を持って包み込んでいたならば、結果は変わっていたかもしれません。互いの責任の中で神の聖さをともに反映するべきだったのです。すべてのクリスチャンは、神の聖さをこの世に映し出す存在として召された聖徒です。信仰とは、完全さに到達した状態ではなく、不完全さの中を共に歩む旅路です。 驚くべきことに、その旅路の果てにおいて神様はモーセを「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。民数記12:3」。これは、モーセが感情を完全に制御できたという意味ではありません。挫折と失敗、怒りと後悔がありましたが、彼は神様を見失わず、信仰を貫いた人だったのです。神様の基準における「柔和」とは、感情を抑圧し切ることではなく、神の重い使命を担いながらもそれに耐え続けた魂の向きであると言えるでしょう。本日の本文から私たちが受け取るべき教訓は、「怒れば裁かれる」という非現実的な要求ではありません。むしろ、神を畏れる心と、互いに対する敬意と尊重の現実的な配慮の中で、共同体と使命が守られるのだということなのです。

民数記 QTエッセイ 【死に触れた人々】 20250505(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 19:11~22 19:11 死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。 19:12 その者は三日目と七日目に、先の水で身の汚れを除いて、きよくなる。三日目と七日目に身の汚れを除かなければ、きよくならない。 19:13 死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。 19:14 人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れる。 19:15 ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れる。 19:16 また、野外で、剣で刺し殺された者、死人、人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる。 19:17 この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、器に入れ、それに新鮮な水を加える。 19:18 きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、すべての器の上に、そこにいた者の上に、また骨、刺し殺された者、死人、墓に触れた者の上にかける。 19:19 そのきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかけ、七日目にその人の汚れを除くことになる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方にはきよくなる。 19:20 汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。 19:21 これは彼らに対する永遠の掟となる。汚れを除く水をかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れを除く水に触れた者は夕方まで汚れる。 19:22 汚れた者が触れるものは、すべて汚れる。それに触れた者も夕方まで汚れる。」   死の現実を前にして、人はその喪失に悲しみながらも、同時に死体の腐敗を恐れる。人の肉体は死ぬとすぐに腐敗が始まり、分解されていく。冷凍や防腐処理をしなければ、一日も持たずに腐り始める。冷凍技術がなかった時代、人々は納棺の儀式を通して葬儀の期間中に腐敗を遅らせ、衣を着替えさせ、火葬し、埋葬する手続きを守っていた。それは荘厳な儀式のように見えながらも、同時に死者の肉体を迅速に処理して、生者を守ろうとする生存のためのシステムでもあった。葬儀とは、生きていた者への哀悼であると同時に、すでに死んだ者を隔離する処理の過程でもある。人は死を悲しむが、生者が死と共に生きることはできないのだ。 本文は、死体に触れた者は汚れており、神様との断絶状態にあると断固として宣言する。死体に触れることは確かに危険な行為だが、それは単なる衛生上の問題にとどまる話ではない。これは霊的状態を象徴する比喩である。民数記の律法は、「死体」という死の象徴を物語の中に意図的に取り込んでいるのだ。死体とは、生物学的な死の結果ではなく、罪の結果である。死という状態は、すなわち神様との断絶にほかならない。民数記19章の律法は、死んだ人間の腐っていく遺体を生きている人間の前に突きつけ、死を免れ得ない存在としての限界と絶望を告発する神学的パフォーマンスなのである。その実存を赤裸々に直視した者であれば、吐き気を覚えたに違いない。 しかし、律法はその断絶を終わりとしては語らない。むしろ、回復の可能性を残している。死は避けられないが、その死との接触によって汚れてしまった者が、再び清くされる道が示されている。その道は、人間の努力や決意によるものではなく、ただ神様が定めた方法によってのみ可能なのだ。第三者、すなわち「清い者」が、赤い雌牛の灰を流れる水に混ぜて、それを汚れた者に注がなければならない。私でもなく、あなたでもなく、「彼」でなければならないのだ。彼の死は、死を打ち破った死である。墓から復活したとき、亜麻布は整えられたままであり、彼の肉体は腐敗しなかった。彼こそが、清めを行う神様の方法そのものであり、私たちのもとに来られたのだ。死と死体、罪と滅びの実体を正直に直視する者だけが、彼が清めの枠組みの中に入られて「すべてを成し遂げた」と言われた、その福音の重さと深さを感じ取ることができる。再び、自分自身について、そして恵みについて、告白せずにはいられない。

민수기 QT에세이 【죽음에 닿은 사람들】 20250505(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 19:11~22 19:11 사람의 시체를 만진 자는 칠 일을 부정하리니 19:12 그는 제 삼 일과 제 칠 일에 이 잿물로 스스로 정결케 할 것이라 그리하면 정하려니와 제 삼 일과 제 칠 일에 스스로 정결케 아니하면 그냥 부정하니 19:13 누구든지 죽은 사람의 시체를 만지고 스스로 정결케 아니하는 자는 여호와의 성막을 더럽힘이라 그가 이스라엘에서 끊쳐질 것은 정결케…