民数記 黙想 【アロンの杖】 20250501(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 17:1~13 17:1 主はモーセに告げられた。 17:2 「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。 17:3 レビの杖にはアロンの名を書き記さなければならない。彼らの部族のかしらにそれぞれ一本の杖とするからだ。 17:4 あなたはそれらを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。 17:5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」 17:6 モーセがイスラエルの子らにこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、部族ごとに、族長一人に一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。 17:7 モーセはそれらの杖を、主の前、すなわちあかしの天幕の中に置いた。 17:8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。 17:9 モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。 17:10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」 17:11 モーセはそのようにした。主が命じられたとおりにしたのである。 17:12 しかし、イスラエルの子らはモーセに言った。「ああ、われわれは死んでしまう。われわれは滅びる。全員が滅びるのだ。 17:13 すべて近づく者、 主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは。ああ、われわれはみな、死に絶えなければならないのか。」   神様は、アロンの杖に芽と実がなるという奇跡を通して、アロンこそが神様に近づく唯一の仲保者であることを確証されました。これは神様の任命権と聖なる秩序を明らかにすると同時に、民が神様に近づくための恵みの通路を示す啓示でした。神様がアロンを立てられた目的は、人々の接近を拒むためではなく、定められた秩序の中で神様へと近づかせるための招きだったのです。 しかし、いつの時代も人間はその恵みを正しく理解できず、誤解してしまいます。彼らは、うわさや聞きかじりの言葉に振り回され、「神に近づくことは死を意味する」と思い込み、「自分たちは滅びるしかない」と嘆きました。神様の招きを、裁きと誤って解釈してしまったのです。彼らは、すべての部族の杖に「成績順」に芽が出るとでも思っていたのでしょう。福音を信じる人よりも、自分中心の偏見を信仰として掲げる人の方が常に多いのです。 人間の本性の中に根深く潜む、この自分中心の歪みを私たちは「罪」と呼びます。問題は、この罪の唯一の解決であるはずの神の恵み、すなわち福音さえも、その自己中心性によってねじ曲げられてしまうことです。そのねじれは律法主義、道徳主義、功績主義などの形で表れます。信仰をただの規則や義務に還元し、善行で自分を正当化し、熱心な活動によって神の承認を得ようとします。しかしそれは敬虔ではなく、むしろ福音に敵対する「宗教の退行」なのです。 聖化を誤って理解すると、この問題はさらに深刻になります。肉体をもつ人間は常に自分に失望し、ついには宗教的罪悪感と自己検閲によって自分自身を縛ってしまいます。現代社会においては、その罪悪感を利用して人を支配しようとする宗教が、福音よりも幅を利かせています。人々は神の招待状を、まるで捜査令状や逮捕状のように受け取るのです。神様はアロンを通して道を開いてくださったのに、民の目にはそれが見えませんでした。今、十字架が至るところにあっても、自分自身に正直でなければ、福音の真理には気づけないのです。 悔い改めとは、繰り返された行動への反省ではなく、自分の存在そのものの発見であり、告発です。肉体に打ち勝ったなどという愚かな自己欺瞞の証しを信じてはなりません。そういう人たちは、肉体の本質も、福音の真理も知らないのです。彼らはただ、人が集まる仕組みだけを知っているにすぎません。敬虔な肉体が神に近づくのではありません。アロンの杖に芽が出たように、挫折し、絶望した肉体こそが、ただイエス・キリストにより頼み、神の御前に出ることができるのです。それこそが福音なのです。

민수기 묵상 【아론의 지팡이】 20250501(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 17:1~13 17:1 여호와께서 모세에게 일러 가라사대 17:2 너는 이스라엘 자손에게 고하여 그들 중에서 각 종족을 따라 지팡이 하나씩 취하되 곧 그들의 종족대로 그 모든 족장에게서 지팡이 열 둘을 취하고 그 사람들의 이름을 각각 그 지팡이에 쓰되 17:3 레위의 지팡이에는 아론의 이름을 쓰라 이는 그들의 종족의 각 두령이 지팡이 하나씩 있어야 할 것임이니라 17:4 그…

民数記 QT エッセイ 【死んだ者たちと生きている者たちとの間に立つ】 20250430(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 16:36~50 16:36 主はモーセに告げられた。 16:37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出し、火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。 16:38 いのちを失うことになったこれらの罪人たちの火皿は、打ちたたいて延べ板とし、祭壇のためのかぶせ物とせよ。それらは、主の前に献げられたので、聖なるものとなっているからである。これらはイスラエルの子らに対するしるしとなる。」 16:39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちが献げた青銅の火皿を取り、それを打ち延ばして祭壇のためのかぶせ物とし、 16:40 そのことがイスラエルの子らに覚えられるようにした。これは、アロンの子孫以外の資格のない者が、主の前に進み出て香をたくことのないようにするため、その人が、コラやその仲間のような目にあわないようにするためである。主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。 16:41 その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」 16:42 会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。 16:43 モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。 16:44 主はモーセに告げられた。 16:45 「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。 16:46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」 16:47 モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。 16:48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。 16:49 コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。 16:50 アロンが会見の天幕の入り口にいるモーセのところへ戻ったときに、主の罰は終わっていた。   神はコラの反逆を裁かれましたが、民はなおもモーセとアロンを恨んでいました。彼らには、いったい何が起こっているのか、まだ理解できていなかったのです。民はコラの死の理由と意味を解釈しようとせず、モーセを責め、その論理に確信を持ち、敵意を燃やしました。世論と群衆心理に飲み込まれた人々はざわめき、囁き合いながら不満と陰謀を広めていきました。真実が何であるかも知らず、扇動され歪められた人々は、なおも憎しみと怒りに満ちていたのです。しかし生き残った者たちは、コラ一派の死の理由を思い巡らすべきだったでしょう。民数記16章の世界は、欺瞞と誤解、憎悪と怒声によって血に塗れた世界でした。 「リトリートセンター・伊東」で一夜を過ごしてきました。東京とは違う自然の中で、普段よりゆったりとした朝の時間を持ちました。同行者たちは口を揃えて、スローなテンポとぼんやりする時間の有益さを讃えました。リトリートセンターの庭では、竹の子が雨後の筍のように天を目指して伸びており、夕方には空から静かに雨が降ってきました。鉄格子の外を憧れる囚人のように、窓に張り付き、竹林が雨に濡れていく「雨ぼんやり」の時間を味わいました。混沌とした世のエンジンをひととき停止させる時間、それは魂のエンジンが回り出す時間なのです。ハイデガーは、「存在するものたち」によって「存在すること」を忘れてしまうと指摘しました。誰もが利益を見つければ目を凝らします。しかし、「火を見つめ」「雨を見つめる」時間には、焦点をぼかします。だからこそ、魂に焦点を合わせることができるのです。 スマートフォンからは、忘れた頃に刃と汚泥が飛び出してきます。一時的にでも電源を切る勇気がなければ、自分の魂のために時間を捧げる勇気など持てないでしょう。リトリートセンターの寝室の枕元では、一晩中、温泉水がチョロチョロと流れる音がしていました。穏やかで一定のリズムでした。私たちが開けておいた流し温泉のせいでしょう。村上春樹の小説『ノルウェイの森』で、主人公ワタナベが友人の死をきっかけに生と死を思い悩んだとき、聞こえていた小川のせせらぎのように——私が聞いたその水音にも、意味を付与したくなりました。流されるようにではなく、流れるように生きていける気がして、ほっとしたのです。朝には決まって鳥たちが窓辺でさえずっていましたが、あえて聞こえないふりをして、一日ぐらいは寝坊を楽しむ怠惰も特別な慰めとなりました。ゴロゴロしながら、そのありのままの自然の音で耳を清めるべきなのです。雨上がりの空を見上げながら、それでもこの世界は生きるに値し、神の御国は美しいと、改めて宣言しなければなりませんでした。 心に余裕を持てなかった民数記16章の人々、信念もなく翻弄され、責任も持たずに他人を責める世の中に、再び神の怒りが下りました。民は疫病によって次々に死んでいきました。死の思考が伝染するこの世界で、誰が公義によって裁かれる神を責めることができるでしょうか。人間は最後まで自分を省みることなく、悔い改めることもありませんでした。本質的に、人間は悔い改めにおいて無能なのです。彼らの運命はモーセの心にかかっていました。モーセとアロンは、民に憎まれた被害者でした。心の中はぐちゃぐちゃだったことでしょう。それゆえ、彼らを苦しめた者たちが疫病で倒れていくのを、腕組みして見下ろしたくなかったでしょうか。神に「もっと滅ぼしてください」と願いたくなかったでしょうか。しかし、モーセがモーセである理由がそこにあります。傷ついたモーセが急いでアロンに贖罪を指示すると、傷ついたアロンは、まるで007作戦のように急いで香炉を手に取り、自分を傷つけた民のために贖罪のいけにえを捧げたのです。 こうして、民は救われました。その災いを食い止めることができた唯一の方法は、代わりに謝罪し、赦しを乞う贖罪だけでした。神が民を赦される仕組みは、実に人間的でありすぎるほど人間的なものでした。神の憐れみと愛を反映する人間の愛と憐れみがなければ、代わりに責任を引き受ける執り成しの犠牲がなければ、贖罪は起こりませんでした。使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死せる者とを審きたまわん」と告白するとき、その裁きを免れる唯一の道は、続く使徒信条の中にある贖罪の恵みの告白にあります。生ける者と死せる者の間に立って執り成すことのできた贖罪こそが、人を人たらしめ、社会を人が生きるに値する場所にしたのです。モーセとアロンも心身ともに疲弊していたでしょう。そんな彼らが贖罪に駆け出したのは、他人の痛みに共感したからでしょうか。それとも、神の御心に共感したからでしょうか。

민수기 QT 에세이 【살아 있는 자와 죽은 자 사이에서】 20250430(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 16:36~50 16:36 여호와께서 모세에게 일러 가라사대 16:37 너는 제사장 아론의 아들 엘르아살을 명하여 붙는 불 가운데서 향로를 취하여다가 그 불을 타처에 쏟으라 그 향로는 거룩함이니라 16:38 사람들은 범죄하여 그 생명을 스스로 해하였거니와 그들이 향로를 여호와 앞에 드렸으므로 그 향로가 거룩하게 되었나니 그 향로를 쳐서 제단을 싸는 편철을 만들라 이스라엘 자손에게 표가 되리라 하신지라 16:39…

民数記 黙想 【記憶の歪曲、現実の離脱】 20250429(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 16:12~35 16:12 モーセは人を遣わして、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「われわれは行かない。 16:13 あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。 16:14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地にわれわれを導き入れず、畑とぶどう畑を、受け継ぐべき財産としてわれわれに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。われわれは行かない。」 16:15 モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」 16:16 それからモーセはコラに言った。「明日、あなたとあなたの仲間はみな、主の前に出なさい。あなたも彼らも、そしてアロンも。 16:17 あなたがたは、それぞれ自分の火皿を取り、その上に香を盛り、それぞれ主の前に持って行きなさい。二百五十の火皿を、あなたもアロンも、それぞれ自分の火皿を持って行きなさい。」 16:18 彼らはそれぞれ自分の火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンと一緒に会見の天幕の入り口に立った。 16:19 コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。 16:20 主はモーセとアロンに告げられた。 16:21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」 16:22 二人はひれ伏して言った。「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを下されるのですか。」 16:23 主はモーセに告げられた。 16:24 「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」 16:25 モーセは立ち上がり、ダタンとアビラムのところへ行った。イスラエルの長老たちもついて行った。 16:26 そして会衆に告げた。「さあ、この悪い者どもの天幕から離れなさい。彼らのものには何もさわってはならない。彼らのすべての罪のゆえに、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」 16:27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から離れ去った。ダタンとアビラムは、妻子、幼子たちと一緒に出て来て、自分たちの天幕の入り口に立った。 16:28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。 16:29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。 16:30 しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく吞み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」 16:31 モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。 16:32 地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を吞み込んだ。 16:33 彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。 16:34 彼らの周りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも吞み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。 16:35 また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。   モーセはコラと共に反乱に加担したダタンとアビラムを呼びましたが、彼らはそれを拒み、公然とモーセを非難しました。彼らは、エジプトから出たことは解放ではなく滅びだと言い放ちました。「我々を乳と蜜の流れる地から導き出し、荒野で死なせようとするのか」と言いましたが、ここでいう「乳と蜜の流れる地」とは、神が約束されたカナンではなく、かつて奴隷として生きていたエジプトを指しているのです。圧迫されていた地を、かえって豊かな地であったかのように語る彼らの言葉は、救いの恵みを否定し、罪に満ちた過去を懐かしむ歪んだ記憶の表れです。人間の絶望は、この無知と歪みを疑うことなく確信してしまうところにあります。 心理学では、自らを抑圧し苦しめた対象に愛着を抱く現象を「ストックホルム症候群」と呼びます。これは生存のための自己正当化の一種であり、現実を否認するために、過去に自分を苦しめた相手を、かえって善なる存在だったと合理化してしまう心の動きです。現実を耐えきれない心が、過去を美化し、救いの恵みを否定する方向へと人間を導くのです。 荒野での苦難が深まるにつれ、モーセへの不満も次第に高まっていきました。モーセが共同体のために尽力していたすべての努力さえも、「王になりたがっている」という歪んだ解釈にすり替えられました。誰かを非難することで自己正当化しようとする試みは、絶えず繰り返されます。しかし本来問われるべきは、自らの正当性をまず証明することです。もし彼らが本当にイスラエル共同体を案じていたのであれば、モーセを引きずり下ろすことではなく、より良い代案と具体的な計画を提示すべきだったはずです。自らの思考や意識に責任を持たず、嫌悪と非難に陥った人間は、もはや教育することも、変革の可能性を見出すこともできません。サイモン&ガーファンクルが歌ったように、「語らずに語る人々、聞かずに聞く人々(People talking…

민수기 묵상 【기억의 왜곡, 현실의 이탈】 20250429(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 16:12~35 16:12 모세가 엘리압의 아들 다단과 아비람을 부르러 보내었더니 그들이 가로되 우리는 올라가지 않겠노라 16:13 네가 우리를 젖과 꿀이 흐르는 땅에서 이끌어 내어 광야에서 죽이려 함이 어찌 작은 일이기에 오히려 스스로 우리 위에 왕이 되려 하느냐 16:14 이뿐 아니라 네가 우리를 젖과 꿀이 흐르는 땅으로 인도하여 들이지도 아니하고 밭도 포도원도 우리에게 기업으로 주지 아니하니…

民数記 黙想 【身分か、役割か】 20250424(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 16:1-11 16:1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、 16:2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。 16:3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」 16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。 16:5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、主は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。 16:6 こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、 16:7 明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」 16:8 モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。 16:9 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。 16:10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。 16:11 事実、一つになって主に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」   レビ族のコラとルベン族のダタン、アビラム、オンがモーセに逆らって反乱を起こしました。この本文を読むにあたり、いわゆる霊的立場や宗教的立場について整理する必要があると感じます。一般的に、モーセが主のしもべであるように、牧師もまた主のしもべであり、レビ人が神殿で奉仕する区別された献身者であるように、牧師もレビ人に対応すると比喩的に解釈されることがあります。しかし、今日の本文では、そのレビ人がモーセに反旗を翻しました。そうすると、牧師はモーセにあたるのでしょうか、それともレビ人にあたるのでしょうか?これを明確にしなければ、論理的矛盾に陥り、霊的秩序も曖昧になります。   共同体のリーダーとしての役割において牧師をモーセに比することは可能です。しかし、身分の意味においてモーセと牧師を同一視することは、神学的に不可能です。モーセは制度化された宗教の指導者ではなく、神の救済計画を実現するために特別に召された救済史的リーダーでした。彼はイスラエルの民をエジプトから解放し、律法を授かり、イスラエル共同体の政治・外交・軍事・立法・司法・行政・宗教を総括する特別な役割を担いました。ヘブライ人への手紙3章では、モーセをイエス・キリストの型として説明しています。これはモーセがキリストと完全に同一であるという意味ではなく、キリストを指し示す不完全な影像としての役割を担ったことを意味します。現代のプロテスタント教会制度において、身分的にモーセに対応する宗教的ポジションは存在しません。   むしろ反乱を起こしたレビ族のコラこそ、今日の牧師や教会のリーダー像により近いと言えるでしょう。とはいえ、レビ人がすなわち牧師であると言っているわけではありません。レビ人の全体的な職務と、牧師の職務は同一ではありません。コラは幕屋奉仕という特別で聖なる使命を与えられていながら、より権威と影響力のある祭司の地位を求め、反乱を起こしました。みことばを教え、礼拝を導くべき牧会者が、自らの職分と役割以上を欲したときに生まれる傲慢の構造と、コラの反乱の構造は同じです。一部の人々は、信徒に対して牧師をモーセのような存在として逆らわないように説きますが、神は職分を奉仕のためではなく、身分や支配の道具として用いようとする傲慢と貪欲を厳しく警告されます。 牧師には教会の代表者としてみことばを教え、礼拝を導く権威があります。その権威は当然尊重されるべきです。しかし、その権威を強調するあまり一線を越えてはなりません。教皇が先日、逝去されました。プロテスタント信徒である私としては、教皇無謬説や使徒ペテロの後継者、地上におけるキリストの代理者という特別な霊的身分には同意も信仰もしていません。ただし、彼の弱者への愛と平和への奉仕の役割には深い敬意を表します。霊的身分や立場を論じることは、実は本質的ではありません。信じる者が信徒であり、身をささげる者が献身者であり、使命を実践する者が使命者であり、みことばを読み、解釈し、教える者が牧師です。誰であれ、謙虚にその役割に忠実であるとき、その人は主のしもべです。そして、どんな場合においても、教会のかしらはイエス・キリストご自身です。

民数記 黙想 【罪を悟らせる恵】 20250426(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生 (복제)

民数記 15:22-31 15:22 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、 15:23 すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、 15:24 もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。 15:25 祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。 15:26 イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。 15:27 もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。 15:28 祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。 15:29 イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。 15:30 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。 15:31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」  モーセを通してイスラエルの民に与えられた神様の約束は、それまでの約束とは少し異なる点がありました。それは、「条件付きの約束」であったということです。私たちには無条件の約束の方がむしろ馴染みがないかもしれませんが、それまで神様はご自身の民に一方的な無条件の約束を与えてこられたため、モーセを通じて与えられたこの新たな約束は、当時の人々にとってはむしろ戸惑いを感じさせ、厳しく受け取られたかもしれません。    しかし、アダム以降の人間は、このような神様の条件付きの約束や命令を完全に守ることができませんでした。人の内には常に罪が存在していたからです。人々は自分でも気づかないうちに、神様の命令を破っていたことでしょう。    今日の箇所に書いてあるように、過って罪を犯した者がいた場合、祭司は神様のもとに贖罪のささげ物をささげなければなりませんでした。このような贖罪の儀式は、民の目の前で毎日行われていたことでしょう。    そのささげ物を見ながら、「今日も誰かが知らずに罪を犯してしまったのだな」と考えることもあったでしょうし、「もしかしてそれは自分だったのではないか」と不安に感じた人もいたかもしれません。むしろ、自分の罪に敏感な人ほど、この贖罪の儀式を通して自らの罪に気づかされることになったでしょう。    このように、敬虔な人ほど、その儀式を見守る心はより一層痛ましく、つらいものであったはずです。そして、それまで気づかずに犯していた罪や、わかっていながらも犯してしまう自分自身の姿に、深い絶望を感じたかもしれません。わかっていて犯す罪はすべて「故意」です。それは人の弱さなどで言い訳できない事実です。    しかし神様は、そのような者たちにこそ、より厳しい罰を約束されます。実際、どこまでが意図的な罪であるかを明確に見極めることはできません。また、どれだけ多くの人々がその罪によってイスラエルの民から断たれてしまったのかも、私たちには知る由がありません。しかし私たちは、過去に何があったかに焦点を当てるよりも、今、自分たちが知りうること、今の私たちに起きていることに目を向けるべきです。    私たちは、自らが罪人であることを認めながら、それでも罪を犯し続けています。知らずに犯してしまう罪もありますが、明らかに罪だと知りつつも犯してしまう罪も、数えきれないほど存在します。そのような私たちには、より厳しい刑罰が待っているのです。しかし、だからこそ、私たちはその中にあって、イエス・キリストの福音をいっそう喜ぶことができるのです。自分の惨めさを悟るその場所で、私たちはさらに大きな恵みを体験することができるでしょう。 https://youtu.be/1zLJXJXwkjo?si=NuDUhmVmcYgJ-3Ac

민수기 묵상 【신분인가 역할인가】 20250428(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 16:1~11 16:1 레위의 증손 고핫의 손자 이스할의 아들 고라와 르우벤 자손 엘리압의 아들 다단과 아비람과 벨렛의 아들 온이 당을 짓고 16:2 이스라엘 자손 총회에 택함을 받은 자 곧 회중에 유명한 어떤 족장 이백 오십 인과 함께 일어나서 모세를 거스리니라 16:3 그들이 모여서 모세와 아론을 거스려 그들에게 이르되 너희가 분수에 지나도다 회중이 다 각각 거룩하고…

民数記 黙想 【罪を悟らせる恵】 20250426(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

民数記 15:22-31 15:22 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、 15:23 すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、 15:24 もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。 15:25 祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。 15:26 イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。 15:27 もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。 15:28 祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。 15:29 イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。 15:30 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。 15:31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」  モーセを通してイスラエルの民に与えられた神様の約束は、それまでの約束とは少し異なる点がありました。それは、「条件付きの約束」であったということです。私たちには無条件の約束の方がむしろ馴染みがないかもしれませんが、それまで神様はご自身の民に一方的な無条件の約束を与えてこられたため、モーセを通じて与えられたこの新たな約束は、当時の人々にとってはむしろ戸惑いを感じさせ、厳しく受け取られたかもしれません。    しかし、アダム以降の人間は、このような神様の条件付きの約束や命令を完全に守ることができませんでした。人の内には常に罪が存在していたからです。人々は自分でも気づかないうちに、神様の命令を破っていたことでしょう。    今日の箇所に書いてあるように、過って罪を犯した者がいた場合、祭司は神様のもとに贖罪のささげ物をささげなければなりませんでした。このような贖罪の儀式は、民の目の前で毎日行われていたことでしょう。    そのささげ物を見ながら、「今日も誰かが知らずに罪を犯してしまったのだな」と考えることもあったでしょうし、「もしかしてそれは自分だったのではないか」と不安に感じた人もいたかもしれません。むしろ、自分の罪に敏感な人ほど、この贖罪の儀式を通して自らの罪に気づかされることになったでしょう。    このように、敬虔な人ほど、その儀式を見守る心はより一層痛ましく、つらいものであったはずです。そして、それまで気づかずに犯していた罪や、わかっていながらも犯してしまう自分自身の姿に、深い絶望を感じたかもしれません。わかっていて犯す罪はすべて「故意」です。それは人の弱さなどで言い訳できない事実です。    しかし神様は、そのような者たちにこそ、より厳しい罰を約束されます。実際、どこまでが意図的な罪であるかを明確に見極めることはできません。また、どれだけ多くの人々がその罪によってイスラエルの民から断たれてしまったのかも、私たちには知る由がありません。しかし私たちは、過去に何があったかに焦点を当てるよりも、今、自分たちが知りうること、今の私たちに起きていることに目を向けるべきです。    私たちは、自らが罪人であることを認めながら、それでも罪を犯し続けています。知らずに犯してしまう罪もありますが、明らかに罪だと知りつつも犯してしまう罪も、数えきれないほど存在します。そのような私たちには、より厳しい刑罰が待っているのです。しかし、だからこそ、私たちはその中にあって、イエス・キリストの福音をいっそう喜ぶことができるのです。自分の惨めさを悟るその場所で、私たちはさらに大きな恵みを体験することができるでしょう。 https://youtu.be/1zLJXJXwkjo?si=NuDUhmVmcYgJ-3Ac