日本語説教:「その視線の先には」 (2020-03-15)

ルカによる福音書 22:54-62 54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。 55 人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。 56 すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」 57 しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。 58 しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。 59 それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」 60 しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。 61 主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。 62 そして、外に出て行って、激しく泣いた。

한국어 설교 : 사순절의 공감, 배신이라는 고통 (2020-03-08)

마태복음 26:47-56 47 말씀하실 때에 열둘 중에 하나인 유다가 왔는데 대제사장들과 백성의 장로들에게서 파송된 큰 무리가 검과 몽치를 가지고 그와 함께 하였더라 48 예수를 파는 자가 그들에게 군호를 짜 가로되 내가 입맞추는 자가 그이니 그를 잡으라 하였는지라 49 곧 예수께 나아와 랍비여 안녕하시옵니까 하고 입을 맞추니 50 예수께서 가라사대 친구여 네가 무엇을 하려고 왔는지 행하라…

日本語説教:「四旬節の共感、裏切りという苦痛」 (2020-03-08)

マタイによる福音書 26:47-56 47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。 48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。 49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。 50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。 51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。 52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」 55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。 56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

日本語説教:「四旬節の共感、恐れという苦痛」 (2020-03-01)

マタイによる福音書 26:36-46 36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」 43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。 44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。 45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。 46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

한국어 설교 : 사순절의 공감, 두려움이라는 고통 (2020-03-01)

마태복음 26:36-46 36 이에 예수께서 제자들과 함께 겟세마네라 하는 곳에 이르러 제자들에게 이르시되 내가 저기 가서 기도할 동안에 너희는 여기 앉아 있으라 하시고 37 베드로와 세베대의 두 아들을 데리고 가실새 고민하고 슬퍼하사 38 이에 말씀하시되 내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니 너희는 여기 머물러 나와 함께 깨어 있으라 하시고 39 조금 나아가사 얼굴을 땅에 대시고…

한국어 설교 : 전환의 시대 20200126

2020年1月26日 여호수아 5:10-12「전환의 시대」조용길 목사 지난 설교에서 이스라엘 백성들은 길갈에서 할례를 행했습니다. 전투를 준비해야할 시기에 적진 앞에서 할례를 행했다는 것은 오직 하나님에게 앞으로 자신들이 가야 할 길을 온전하게 맡겼다는 것입니다. 누군가 한 명이 정한 것이 아닙니다. 공동체적 결정에 모두가 한 마음으로 순종하지 않고는 할 수 없는 일이었습니다. 우리의 생각에는 하나님을 믿는 믿음은 당연히 필요할 것이지만 그것과…

한국어설교 : 「길갈의 할례」 20200112

2020年1月12日「길갈의 할례」여호수아 5:1-9 새해 들어 두번째 주일에 예배하시는 모든 분들을 환영합니다. 작년 11월 추수감사예배를 마지막으로 여호수아를 멈추고 어드벤트와 크리스마스 연말연시를 지나왔습니다. 여호수아 전체 강해설교를 할 생각으로 여호수아 설교를 시작한 것은 아니었습니다만 조금 더 여호수아를 읽어가도록 하겠습니다. 이스라엘 백성들이 가나안에 들어가는 데까지 하나님은 끊임없이 믿음을 요구하시고 그것을 확인하시는 것을 알 수 있습니다. 에다가와 사랑의 교회는 지난…

日本語説教:「共同体の成長と一致」 20200105

2020年1月5日「共同体の成長と一致」エペソ3:17-19   2020年、新年を迎えて初めての主日礼拝です。あけましておめでとうございます。2020年は、家庭と職場と教会で以前とは異なる神様の恵みを体験する一年になることをお祈りいたします。今日の本文はエペソ人への手紙になります。去年の12月にQTを一生懸命された方はエペソ人への手紙を全部読まれたと思います。エペソ書の中でも今日の本文は使徒パウロの祈りの形式になっています。祈りは聖徒の最も強力な武器です。もしパウロが投獄されていなかったら、エペソに出向き、エペソの信徒たちに直接教えることができたでしょう。しかしこの時のパウロは牢屋の中にいたので、神様に切に祈りました。自分がそうできないので祈ったわけです。神様はその祈りを用いられました。   知識は教えられますが、人の心は変えられません。教えるべきことがあり、祈るべきことがあります。知識は直接伝えることよりも、神様が悟らせてくださるものがあります。パウロのこの祈りの動機を遡って考えてみると、エペソ教会の状況に直面します。14節と15節でパウロは教会の構成員の多様性について言及しています。エペソ教会はユダヤ人と異邦人が入り混じっている状況にありました。ここでそれぞれの違いと、それによる葛藤は避けられない問題でした。今日パウロはこの問題を扱っています。共同体の多様性は重要な現実であり、教会の一致もまた重要な価値なのです。   ただこの二つが衝突しているように見えます。パウロはこのような状況、つまり多様性の中で連合と一致という秩序を見出そうとしているのです。構成員の多様性を言い、そして続く16節では内なる人が強くならなければならないという祈りに繋がります。この「内なる人を強くしてくださいますように」という祈りは、15節の「家族」に関わってくるのです。そして17節で語られる「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」信仰にも関係があります。つまり教会は神の家族という多様性を受け入れる過程において、外なる人ではなく、内なる人が強められなければならない、またそれを通して教会は安定し定着されるということなのです。したがってエペソの状況と3章の文脈を考えると、この本文が示している核心はユダヤ人と異邦人の一致です。パウロはそのために公開的に祈っているのです。   3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 私が千葉の開拓教会で信仰生活をしていた時、小さな花壇の木を植え替えたことがありました。隣の建物にまで伸びてしまって光を遮ってしまうのではないかと思い、教会の前の方に移しました。土を深く掘って、木の根を掘り出し、植え替える場所も同じ深と同じ広さだけ掘りました。そこに木を植えて、土をかぶせて、水をやりました。しかしその木はすぐに枯れ始めてしまいました。水をいくらやっても木の葉が枯れて落ちていきました。まるで死んだ木のようになっていきました。数日間水をやって様子を見てみましたが、結局解決策を見出せなかったのでそのまま放置しました。枯れ果てた木は、そのまま死んだかのように冬を過ごしましたが、翌年の春に軟らかい芽を出しました。感動的でした。死んだかのようでしたが、その間に木の根はずっと土の中で根ざす場所を探していたのです。   パウロはなぜ聖徒たちの信仰を根にたとえて話したのでしょうか?パウロが根のない人々に対する配慮を持ってこのように喩えたのでしょう。信仰の根が根ざすことは、喜ばしく感謝すべきことです。植え替えられた木が根を根ざすことは非常に大変なことだからです。どんな場合でも、根を掘り出して植え替えるということは難しいことです。同じ恵みを受けても植え替えられた木は根がまだ定着しておらず、その恵みを十分に吸収することができません。時間が必要です。食べられない間も力の限り根ざしていく時間が必要です。土に慣れる必要もあります。なので小さな木の植木鉢を替える際、根にくっついている土も一緒に植えてやります。土壌が変わるというのは、どれほどの衝撃と混乱があるでしょうか。   私もこの世から教会に植え替えられて根ざすまでに時間が掛かりました。私は逃げようともしましたが、そうすることはできませんでした。信仰を持つしかないと思わされた時、その土壌に適応しようと努力しました。なぜなら価値観が変えられていない状態で信仰生活を送る事自体が常に衝撃と混乱でしかなかったからです。教会を移った時もそうでした。まるで死んだかのように枯れていた自分が、生き延びるために時間と注意と配慮が必要だったのです。ほとんどの場合この事から自らを守るために信仰と生活を分離してしまいます。しかしそれは無責任な方法です。そのような方法で信仰生活をすれば、いくら長い間信仰生活をしたとしても、信仰が成長したり成熟したりすることはありません。自分を守るのではなく、自分を捨てなければ、信仰の中に入ることができないからです。自分と戦う時間も足りないのに、自分自身を騙しながら信仰を根付かせることはできないのです。そういう人はすぐに信仰が枯れてしまいます。   パウロは異邦人クリスチャンたちに対するやるせない気持ちで彼らが共同体に根ざせるように祈りました。木が根を下ろす時に、その木の根を固定させるのは土です。多様性というのは、言い換えれば異質のものということです。互いに違うのです。それは根にも土にも不便なものになります。だから根だけが緊張するのではなく、土壌もすでにある根も緊張します。ユダヤ人には社会的で宗教的なリスクであったはずですし、日常生活にも支障をきたすものだったはずです。彼らの土壌は違います。言語も文化も伝統も生活も食べ物も全て違います。不便かつ不自由なものでした。   なのでパウロは根を下ろしても、愛のうちに根を下ろすようにとすすめました。この愛は、異質なものを受け入れ、不便なものを互いに理解する配慮です。エペソ教会は黙示録でとがめられていますが、それは初めの愛が冷めてしまったという理由でした。初めの愛が変わってしまったのです。それはキリスト者に対する愛が弱まったという意味のみならず、互いのことを配慮する愛が消えてしまったということです。事実この二つは同じ言葉です。聖徒の中に愛があり、それゆえ互いに場所を譲り、共に交わって、その土壌に適応していかなければなりません。愛の配慮と親切が無い所の根は、自分の場所を探し当てることができずに、やがて枯れてしまいます。   教会の前に一本のムクゲの木があります。もともとは植木鉢に植えた木だったのが、大きくなるにつれてその根が鉢の底を突き破り、アスファルトの間から土の中へと入っていったのです。根がどれほど水分を欲しているのかわかりません。まるで人の手のように、水を探し求める鹿の喉のように、木の根も水のある所を求めていきます。その根にとって水と土の栄養は自分の命に直結するものです。ここでパウロは木が根を下ろす時に基礎が大事であると言っています。もちろんここで根を下ろす人とは異邦人の聖徒たちです。しかし私たちの現状で考えれば、異邦人というのは、言葉と考えと行動がまだ教会に根ざしていない人のことです。教会が未だに閉鎖的なため、彼らの根下ろしの手助けができていいないのです。   地震の時は竹の下に逃げなさいという言葉があります。竹はとても深いところまで根を下ろします。毛竹という竹は最初の5年間根だけを下ろし、いつしか1日に70センチずつ成長して一ヶ月の間に30メートルも大きくなります。その細長い竹が折れることなく、しっかりと立つことができるのは、根がしっかりと根付いているからです。土の下を見てください。根が他の竹の根と絡み合って、その間にある土がその根をしっかりと固定しています。それがまさに強い基礎となっているのです。地が裂けるほど大きな地震が来ても、竹の畑はその根の力強さと丈夫な土壌のおかげで裂けることがありません。   違うものと変化するものを拒んでしまうと、根を下ろすことも基礎を作ることもできなくなってしまいます。すでにある木の根の間に新しい木の根が入り定着しなければなりません。綺麗な水をどこかに溜めておくと水晶のように美しいものですが、しばらくすると虫ができ腐ってしまいます。同じ理屈です。少し怖かったり不便であったりしても、水は多様な環境に遭遇しながら流れていく時にのみ、綺麗な水のままで生き延びるのです。根が根付き、基礎ができるということは、新しく植え替えられた一本の竹にどんな意味があるでしょうか?小さな一本の木は一本の足の小指で支えるだけで、その根の絡みと土と一致した環境の恩恵を受けることができるのではないですか?   基礎が強められるというのは、建築学において上部構造を建てるためにそれを支えられる基礎を確実にするという意味です。地盤が弱いと建物を建てることができないからです。その上に教会を建てるということです。教会の共同体の基礎は異質なものに対する配慮と包容です。根が強ければ木を建てることができ、木は枝を伸ばして実を結ぶことができます。これは全て有機的に結び合って水分を供給できるから可能なのです。教会の土木工事は開放性と包容性にあります。また新しい人には適応する努力と忍耐になります。   枝川愛の教会は礼拝と宣教を拡張しています。教会に来る方の数が増えていき、その背景も多様化していくでしょう。しかし成長と拡張には必ず伴うものがあります。それは分裂です。水が流れ出ないようになり、根は絡み合わないようになると、分裂が起こり始めます。私たちはこのことを警戒しなければなりません。必要なのは、分裂を避けようという決心ではなく、土を共有し根が絡み合えるように配慮する開放性と包容性です。開放し、包容し、挑戦しなければ、基礎が強くなることはありません。だからパウロは「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださり、また、愛に根ざし、愛に基礎を置くように」とここで祈っているのです。   親しいほど礼儀をもって接しなければなりません。互いの配慮は、互いの感謝です。パウロはそのことをコロサイ人への手紙で、2:7 「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」と言いました。   教会の中で自分とは違う兄弟への愛は、まさに神に対する愛への応答です。エペソ書はキリストとキリストの共同体が互いに分離したものではなく、キリストの教会にあるキリストという一つの連合だと言うのです。教会を愛するという言葉は、キリストとの連合、生徒との連合に対する積極的な従順を意味します。これがエペソ書の持続可能な教会論の真髄です。少数の献身ではない、共通の配慮と愛が必要です。分かち合いと開放の共同体の中にキリストがおられます。多くなる時に分かち合えるという人間の法則に私たちは抵抗しなければなりません。神様が喜ばれることではないからです。そのようなことの手足となってはなりません。   2020年、私たちの教会は拡大していきますが、配慮する内なる人は成長していくはずです。拡張していく中で互いに愛し合う成熟した共同体になることを願います。私たちが下した根を見てください。土と根の間には隙間があると思います。他の根がその隙間の中に入ってこられるように配慮していきましょう。礼拝の席を空けてあげましょう。私たちの小グループの集まりの席も空けてあげましょう。そのようにして絡み合い、交わり合えば、共同体の基礎は強くなります。愛のうちに根を下ろすことができます。2020年枝川愛の教会が根を下ろし、基礎が強められる礼拝と宣教のために、善き共同体となりますようお祈りいたします。

日本語説教:新年礼拝「過去との和解」20200101

2019年1月1日新年礼拝「過去との和解」イザヤ書43:18-21 ハイデッガーという哲学者は人を「死に向かう存在」であると言いました。嬉しい言葉ではないですが否定もできません。死ぬために生きるのではありませんが、人生とは明らかに死を前提に始まります。避けようとしても死は必ず人間の背後から追ってくるものです。生という原因は、死という結果に終わります。生きている人は死の平凡性について考えなければなりません。死は特別なものではありません。死は一般的なものです。他人の死に対する関心がないために自分の死について驚くだけなのです。死がいつから驚くほどに新鮮なものだったでしょうか?この世界は死で溢れています。死は雷のようなものではなく、秩序正しい海の波のようなものです。人は絶えず死んでいきます。この瞬間も海の波が絶えず迫ってくるように、一つの世代が過ぎ去り、次の世代が迫ってくるのです。   その平凡で一般的な秩序を知らない人は、自分に訪れる死を雷のようなものだと考えることでしょう。しかしいくら考えても、死ぬということは、一般的で平凡な日常です。このことを覚えるのが知恵です。これを覚えて生きれば、信仰生活の半分は成功です。死を目前に、憤ったり、憎んだり、欲張ったりする人はいないでしょう。愛と赦しと謙遜と譲歩は教えるものではなく、自分の存在を悟る時にわかるようになるものです。死に対する忘却のゆえに愚かさと高慢がわき起こるのです。   尊敬するある牧師が癌の闘病生活をきっかけに、毎日早天祈祷のYouTubeをアップし始めたのですが、そのチャンネル名を「素晴らしい早天」と名付けました。死を前提に置くと、生きていることは毎日感謝でしかありません。正月から「死」についてお話する理由は、「生」をお話したいからです。死があるからこそ、生が毎日新しいものになるのではないでしょうか?2019年の終わりなき2020年の始まりが何の意味がありますか?結局その2020年も2021年によって価値なきものになってしまうならば、私たちが迎える2020年の意味は何でしょうか。2019年の命が途絶え死んでしまいました。1分1秒たりとも余すことなく、自分の時間を使い果たして死にました。   そしてその次の波である2020年がやって来ました。過ぎ去った時間を手離してあげましょう。命が尽きて死んでいった2019年にお別れしましょう。多事多難という言葉はたくさん言われますが、多事多喜や多事多福という言葉もあります。韓国には「過ぎ去ったものは過ぎ去るだけの意味がある〜♪」という歌があります。すべてのことに意味があると思います。よかったことでも、辛かったことでも、過ぎ去ったことに意味を見出そうとする時、それに支配されてはいけません。過去の記憶に支配されるのは、死んだものに支配されることだからです。2019年の時間は私たちを支配しましたが、これからは2019年の記憶を私たちが支配するのです。   悔い改めた信仰は実を結びます。まだ憤りと憎しみの中にあるならば、それは悔い改めていないのです。しかし悔い改めて実が結ばれているならば、これからは自分を苦しめてはいけません。 第Ⅱコリント7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。   悔い改めは悩みを伴いますが、それは生きさせる悩みです。ただ神の前に悔い改める悩みではなく、過去に対する悩みは死であると言いました。過ぎ去った時間の自分の過ちを赦すことで兄弟の罪も赦すことができます。 ヨハネの福音書20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。   この世には悔しいこともあります。おかしなことではありません。そのような悔しく無念なことも忘れるべきです。そういったものも死んでいった時間とともに送ってしまいましょう。「水車は過ぎ去った水では回れない」という言葉があります。過去にとらわれてはなりません。現在に安住してもいけません。漠然とした未来を憧れる必要もありません。過去は振り返るものであり、現在は忠実に生きるものであり、未来は望むものなのです。   ヨブ記11:17,1817 あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。18 望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。 暗闇の日、苦しみの日、困難の過去を早く忘れてしまいなさいということです。過去に縛られるのは良くありません。カレンダーを見てください。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。私のことを嫌う人はいると思いますが、敵だと思う人はいないと思っています。しかし年末に考えてみたら、私のことを憎んでいる人がいるかもしれないと思いました。それでメールを送って丁寧に謝罪しました。そのまま年を越すのが嫌で連絡をしました。すみません、許してください、と言いました。「最期」を迎える2019年が、12月31日に遺言で私にそのようにするように言ってきました。夜になるまで憤ったままではいけないと言いますが、年を越してもまだ憎しみを抱いているのであれば、自分の心が枯れてしまいます。だから謝罪と若いの言葉を交わしました。そのおかげで平安なうちに眠ることができました。   私を縛り付けている過去のことは忘れてください。過ぎ去ったものを考えてはいけません。なぜならこれから神様が新しいことをなさるからです。イザヤ書のみことばです。 43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。   昔のことを忘れれば、これからは神様が新しいことをなさると約束しています。新しいことのために昔のことから脱却しなければなりません。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないのです。新年には神様の贈り物として自由を受け取ってください。赦してください。そして和解してください。そうすれば自由になります。それこそ私たちが行くべき天国と最も近い感情です。過去と和解して2020年を迎えられますようお祈りいたします。あけましておめでとうございます。

한국어설교 신년예배 : 과거와의 화해 20200101

2019年1月1日 新年礼拝 신년예배 「過去との和解」 【과거와의 화해】 イザヤ43:18-21 이사야 43:18-21 説教 趙鏞吉 師 설교 조용길 전도사 하이데거라는 철학자는「인간은 죽음으로 향하는 존재」라고 했습니다. 그런 정의가 반갑지 않겠지만 부정할 수가 없는 것입니다. 죽기 위해 사는 것은 아니지만, 삶은 분명히 죽음을 전제로 시작됩니다. 회피해 보아도 죽음은 도망가는 인간의 뒤를 어김없이 쫓아옵니다. 삶이라는 원인은 죽음이라는 결과를 맺게 됩니다. 살아있는 사람은 죽음의 평범성을…