QT

I 列王記 8:22-30

8:22 ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって両手を伸べ広げて、

8:23 こう言った。「イスラエルの神、主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。

8:24 あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに約束したことを、ダビデのために守ってくださいました。あなたは御口をもって語り、また、今日のように御手をもってこれを成し遂げられました。

8:25 そこで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたことを、ダビデのために守ってください。『あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に就く者がわたしの前から断たれることはない』と言われたことを。

8:26 今、イスラエルの神よ。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたおことばが堅く立てられますように。

8:27 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。

8:28 あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。

8:29 そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。

8:30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。

 

 キリスト教にとって、お祈りは他の宗教の祈のように単なる宗教的行為以上の意味を持ちます。その祈りは私たちが欲しいものを求めるだけでなく、約束されたものを受けるために捧げる神の子たちの特権であるからです。
 
 今日の箇所に記されているソロモンのお祈りには、一つの特徴があります。それは神様の約束に基づいた祈り、神様の御言葉に基づいたお祈りであるということです。このようなお祈りが聖書的な祈り、知恵あるお祈りでしょう。私たちのお祈りもこのような知恵あるお祈りにならなければなりません。
 
 神様の約束に基づいた祈りというものが、まるで私たちの自由なお祈りを制限するように感じられるかもしれません。しかし、決してそうではありません。私たちに向けた神様の約束が単なる裁きからの救いの約束だけであるのではなく、私たちの全生涯にわたって与えられる神様の恵も含まれているためです。
 
 とは言え、何でも求めることが正しいお祈りになるということではありません。私たちのお祈りは徹底的に聖書的でなければなりません。自分のお祈りを振り返り、絶えず自分が捧げたお祈りが聖書の教えと一致しているかを常に振り返ってみなければなりません。
 
 今日のソロモンのお祈りは、徹底的に与えられた約束に基づいて捧げられました。あまりにも徹底で、硬くまで感じてしまいます。しかし、このお祈りはソロモンが捧げられたお祈りの中で最善のお祈りであると思います。ソロモンが受けた約束の内容と神様に対する賛美がお祈りの中で調和を成しているためです。
 
 しかし、私たちのお祈りはソロモンの祈りよりも様々なことを求め、様々な表現で神様を賛美することができるでしょう。ソロモンの以後にも神様は預言者たちやイエス·キリストを通して私たちに多くの約束を与え、ご自身がどのようなお方であるかをより明確に知らせてくださったためです。
 
 私たちの日々の中でも、ソロモンのように知恵あるお祈りを捧げ、信実な神様から約束されたことを受けて享受する、その神様に私たちの心を表すお祈りが絶えず捧げられることを願います。