essay 【고맙다는 말도 못 했는데】 20200915

  숲 사이로 난 자전거 길을 달렸다. 나무들이 만든 터널을 지날 때 살랑거리는 잎새들은 판화를 찍어내듯 길 위에 그림자를 드리웠다. 나뭇잎이 만드는 그늘을 일본어로 木洩れ日(こもれび, 코모레비)라고 한다. 그러나 말뜻을 따져보면 코모레비의 주인공은 나뭇잎이 아니고 나뭇잎 사이로 비친 햇살이다. 木陰(こかげ,코카게)라는 말도 있긴 하지만 나뭇잎을 주인공으로 하는 말은 아니다. 뜨거운 여름 동안 햇살보다는 나뭇잎에게 정이 더 많이…

성찬식을 기다리며

코로나가 시작된 지 벌써 반년이 흘렀다. 모이기를 힘쓰라 하신 말씀이 무색할 만큼 교회는 모여서는 안 되는 곳이 되어버렸다. 모여서 예배하지 못하는 시간이 길어지면서 성찬의 시행은 또 하나의 문제가 되었다. 에다가와 사랑의 교회는 매달 첫째 주 주일예배에 성찬을 시행하고 있으나 팬데믹 이후 성찬식을 하지 못하고 있다. 초대교회와 종교개혁시대의 교회는 주일예배마다 성찬을 시행했다. 신학적으로 교회의 성립조건은 오직…

【聖餐式を待ちながら】

新型コロナウイルスが始まってからもう半年が過ぎた。「集まりをやめたりせず、むしろ励まし合おう」と言われたのが恥ずかしくなってしまうほど、教会は集まってはいけない場所になってしまった。集う礼拝ができない時間が長くなるにつれて、聖餐の執行も大きな問題になっている。枝川愛の教会は、毎月第一週目の主日礼拝に聖餐を執行しているが、パンデミック以降、聖餐式は執り行っていない。初代教会と宗教改革時代の教会は、主日礼拝に聖餐を執行していた。神学的に教会の成立条件とは、「言葉の宣言と聖礼典の執行」である。説教はYouTubeで配信できても、聖餐はそうはいかない。聖餐に参加する信徒の喜びをいつまで待たなければならないのか、その終わりが見えないのは心苦しい。   オンライン礼拝の普及に伴い、聖餐をめぐる神学的見解もまちまちである。礼拝堂における感染予防対策と身体的距離の確保を徹底した上で、礼拝と聖餐を強行する教会もあれば、オンラインでの聖餐を試みようとする教会もある。牧師や役員が信徒の自宅までパンとぶどう酒を届けたり、自宅で信徒自らが用意したりすることもある。ドライブスルーでパンとぶどう酒を分餐している所もあると耳にしている。日本同盟基督教団は「オンライン礼拝での「聖礼典」執行に懸念」というタイトルで指針を表明した。「司式者と陪餐者が離れた場所にいる状態で二品が配餐され受領されることは、共に与る食卓という聖餐の持つ意味、制定の御言葉と聖別の祈りの示す意向、陪餐者のふさわしさの吟味などを十分に確保することに制約が生じる」という神学的な問題がもたらす懸念である。   キリストの肉と血を分け与えた初代教会の聖餐は、自分のものを自分のものと思わず、聖徒と共に分かち合う生活へと発展した。また、聖餐と愛餐の区別がなかった時代、パンとぶどう酒が与えられなかった人がいたことに関して、パウロがコリント教会に対して厳しく叱責した。教会は、キリストの御体と血潮を分け与える聖餐を通じて、礼拝と宣教の共同体性が確認され、強められるのである。聖餐が共同体の中でキリストの犠牲を覚えることであるならば、聖餐の儀式を終えた聖徒は、今度は生活の場で犠牲と分かち合いを実践し始めなければならない。それこそがキリストを記念するものである。N.T.ライトによれば、聖餐は歴史的に5つの名称があったと言う。パンを裂くこと、分けること、感謝すること、食べること、そして最後はラテン語でイテ ミサ エスト(ite missa est)、つまり、聖餐が終わったので解散するという意味である。ともに集まってパンを裂き、感謝をもってパンを分け、食べる、そして世に遣わすことが、すなわち聖餐の名である。   枝川愛の教会の婦人らは、聖餐と愛餐ができなくなってから、おかずを作り始めた。在宅勤務によって家族との食事の頻度も増え、料理の際に普段より少し多めに作ることで共同体にも分けることができる。まずは独り暮らしの方々、留学生におかずを分ける。それから家庭も互いに分け合う。もちろん、忙しい人は無理して作ることはできないし、おかずの分かち合いが愛餐の代わりになることもできない。また、愛餐が聖餐の代わりになるはずもない。しかし、分け与える、記念する、という聖餐の精神を考えるのであれば、僅かなおかずを分けることであっても、それはパンデミックの時代において聖餐の喜びを分かち合うための教会と聖徒の小さな実践なのである。今日もまたおかず(=飯饌)を作り、聖徒の家に配っている(=配饌)方々がいる。彼らが枝川の配餐委員である。その聖なるおかずをいただきながら、回復の日が来るのを待ちたい。主の民が聖なる公同の教会に集い、キリストの定められた聖餐にあずかり、聖徒の交わりの愛餐にあずかる日々が回復されることを今も待ち望んでいる。  

足球チーム 족구팀

枝川愛の教会の足球チームです。毎週土曜日午前7時30分~毎週日曜日午後3時30分~枝川3丁目公園でやってます。 どなたでもご参加できます。 에다가와 사랑의 교회 족구팀입니다. 매주 토요일 오전 7시30분~매주 주일 오후 3시30분~에다가와 3초메 공원에서 하고 있습니다. 누구나 참가하실 수 있습니다.

단독자 20200404

사쿠라를 똑바로 쳐다보기에는 어쩐지 미안해지는 봄이다. 아무도 눈길 주지 않아 무안해하는 꽃을 뒤로하고 동북을 향해 달렸다. 후쿠시마의 들에는 물로 뒤덮였던 흔적이 아직 남아있었다. 사쿠라 대신 방사능 수치를 알리는 전광판이 잊을만하면 나타났다.   봄 햇살은 더없이 황홀했다. 쏟아져 들어온 햇살의 평화 위에 9년 전 평화롭게 빨래를 널다가 휩쓸려간 사람들의 지르지 못한 비명이 침묵이 되어 흘렀다. 그간…

신명기QT5:이웃과 적 20200327

신명기2:16-252:16 모든 군인이 사망하여 백성 중에서 진멸된 후에2:17 여호와께서 내게 일러 가라사대2:18 내가 오늘 모압 변경 아르를 지나리니2:19 암몬 족속에게 가까이 이르거든 그들을 괴롭게 말라 그들과 다투지도 말라 암몬 족속의 땅은 내가 네게 기업으로 주지 아니하리니 이는 내가 그것을 롯 자손에게 기업으로 주었음이로라2:20 (이곳도 르바임의 땅이라 하였었나니 전에 르바임이 거기 거하였었음이요 암몬 족속은 그들을 삼숨밈이라…

日本語説教:「四旬節の共感、拒絶の苦痛」 (2020-03-22)

イザヤ 53:1-6 1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。 2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

요한복음QT58:이 사람을 보라 202003010

요한복음19:1-1619:1 이에 빌라도가 예수를 데려다가 채찍질하더라19:2 군병들이 가시로 면류관을 엮어 그의 머리에 씌우고 자색 옷을 입히고19:3 앞에 와서 가로되 유대인의 왕이여 평안할찌어다 하며 손바닥으로 때리더라19:4 빌라도가 다시 밖에 나가 말하되 보라 이 사람을 데리고 너희에게 나오나니 이는 내가 그에게서 아무 죄도 찾지 못한 것을 너희로 알게 하려 함이로다 하더라19:5 이에 예수께서 가시 면류관을 쓰고 자색…

日本語説教:「四旬節の共感、裏切りという苦痛」 (2020-03-08)

マタイによる福音書 26:47-56 47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。 48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。 49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。 50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。 51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。 52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」 55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。 56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

日本語説教:「四旬節の共感、恐れという苦痛」 (2020-03-01)

マタイによる福音書 26:36-46 36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」 43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。 44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。 45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。 46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」