ダニエル QT6 20201120【全体主義の恐れの前に】ダニエル3章1~12
ダニエル 3章1~12 3:1 ネブカドネツァル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に建てた。3:2 そして、ネブカドネツァル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を招集し、ネブカドネツァル王が建てた像の奉献式に出席させることにした。3:3 そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカドネツァル王が建てた像の奉献式に集まり、ネブカドネツァル王が建てた像の前に立った。3:4 伝令官は力強く叫んだ。「諸民族、諸国民、諸言語の者たちよ。あなたがたはこう命じられている。3:5 あなたがたが角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたときは、ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝め。3:6 ひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれる。」3:7 それで、すべての民が角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民族、諸国民、諸言語の者たちは、ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝んだ。3:8 このため、この機会に、あるカルデア人たちが進み出て、ユダヤ人たちを中傷して言った。3:9 彼らはネブカドネツァル王に告げた。「王よ、永遠に生きられますように。3:10 王は、『角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたときは、すべてひれ伏して、金の像を拝め。3:11 ひれ伏して拝まない者はだれでも、火の燃える炉の中へ投げ込め』と命令されました。3:12 あなたがバビロン州の行政をつかさどらせた何人かのユダヤ人がおります。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴです。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みもいたしません。」 ネブカドネツァル王が金の像を造りました。夢で見た金の像の頭が自分だということ、また当時世界最強の征服者であるという現実的な自信感が金の像を作ったかもしれません。しかし、夢と解き明かしの核心は、強者の自信感ではなく、肉体の虚しさにあります。ネブカデネツァルがその中核を理解していたようには思いません。 当時のバビロンとペルシャにおいて神像というのは一般的な文化でした。通常は、5メートルほどの像ですが、ネブカドネツァルが立てた像の大きさは、換算すると高さが30メートル、幅が3メートルにも及ぶ巨大なものでした。ヘロドトスという歴史家によれば、この神像はバビロンの神、ベルの像であり、22トンの金で造られたとされています。王はすべての官僚を呼び集め、雄大な神像の落慶式に参加して、それを拝するように命令しました。 そうでない場合の処罰まで明らかにしておきました。「ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」拝するのは神だけでしょうか。王の威厳と業績を拝むことを意味しています。火の燃える炉は高い火力のカプセルのようなもので蜂の巣状の鉄作り、その上から蓋を開くことができ、横には、風の戸があって遠くからその中を見ることができる構造でした。 バビロン官僚は皆ベルの神像を本当に慕って拝したのか、それとも燃える炉に投げ入れると言う王が怖くて拝したのかは、分かりません。いずれにせよ皆が像を拝しました。ところが、そこに参加して神像に拝むべき官僚の中にはダニエルの3人の友、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴも含まれています。彼らは像を拝みませんでした。 これには、勇気が必要です。その勇気というのは、真の神様を信じているので、偶像に拝まないという原則的なこと以上に、現実的なものです。すべての人が敬拝している状況の中で自分だけがひれ伏さずに、立っていなければならない恐怖に対する勇気です。拝さなければ、社会的な不利益を受けなければならない、つまりイジメへの覚悟です。皆が忠誠をしている中で自分だけが不敬しなければならない、いわば逆走です。全体主義への恐れです。 中世には、信仰と礼拝を法に定めて強要し、近代は侵略と暴力をもって宗教を移植しようとしました。その全体主義の中で本当の礼拝は、窒息したわけであります。今も変わっていません。文化の伝統、愛国に名乗って宗教を統治のイデオロギーにする社会で自分一人それに抵抗するということは恐ろしいことです。 クリスチャンが神社参拝をしなければならかった時代の現実的な問題は何だったでしょうか?神様よりも当時の全体化された社会がより怖かったからです。私だけが違う、皆がやっているのに私だけは損を被る。それは文化であり、伝統であり、国民儀礼に過ぎないという偽りに耐えなければ、時代の偶像から抜け出すことはできません。 帝国の全体主義が抑圧していた信仰と礼拝ということについて話しましたが、もう一つの全体主義を言及しなければなりません。それは、教会が成している全体主義です。教会がもう一つの全体主義になって惰性に陥った儀式を行い、他人を強制することです。そういった体制で楽に礼拝していた時代のキリスト教会は健全ではありませんでした。全体の中に灰色の保護色を着たカメレオンになっては、コラムデオの礼拝をすることはできません。 私たちはしばしば「礼拝堂にはなく、世の中で礼拝者として生きる」ということを言います。でも実際にそれは怖いことです。教会に出席しなくてもよいという自由を言うのではない、世の中で平和ではなく、剣で生きるという宣戦布告です。主流化されていき、全体化されていく中で批判的改革意識を持って戦う個人の信仰によって教会は神様への本来の礼拝を守っていくことができるのです。