한국어 예배 (2021-01-31)

레위기 4:13-2113 만일 이스라엘 온 회중이 여호와의 금령 중 하나라도 그릇 범하여 허물이 있으나 스스로 깨닫지 못하다가14 그 범한 죄를 깨달으면 회중은 수송아지를 속죄제로 드릴지니 그것을 회막 앞으로 끌어다가15 회중의 장로들이 여호와 앞에서 그 수송아지 머리에 안수하고 그것을 여호와 앞에서 잡을 것이요16 기름 부음을 받은 제사장은 그 수송아지의 피를 가지고 회막에 들어가서17 그 제사장이 손가락으로…

日本語礼拝 (2021-01-31)

レビ記 4:13-2113 イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、【主】がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、14 自らの罪が明らかになったときに、その集会の人々は罪のきよめのささげ物として若い雄牛を献げ、それを会見の天幕の前に連れて行く。15 会衆の長老たちは【主】の前でその雄牛の頭に手を置き、【主】の前でその雄牛を屠る。16 油注がれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入る。17 祭司は指を血に浸し、【主】の前で、垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。18 そして、その血を会見の天幕の中にある【主】の前の祭壇の四隅の角に塗る。また、その血はすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。19 脂肪はすべてその雄牛から取り、祭壇の上で焼いて煙にする。20 罪のきよめのささげ物の雄牛に対してしたように、この雄牛に対して行う。こうして祭司は彼らのために宥めを行う。そして彼らは赦される。21 その雄牛は宿営の外に運び出し、先の雄牛を焼いた場合と同様に、それを焼く。これは集会のための罪のきよめのささげ物である。

マタイによる福音書 QT17 20210130土【わたしに従って来なさい】マタイ 8章 14~22

マタイ 8章 14~228:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」   私たちの教会の周りにある聖路加国際病院(St. Luke’s International Hospital)は、東京築地の外国人居留地に宣教師によって建てられた最初の近代式病院です。米国の聖公会は、ルカの福音書を書いたルカの職業がもともと医師だったので、病院名をルカにしたのです。韓国初の近代病院も宣教師によって建てられました。アレンが建てた廣惠院は、恵みを広く施すという意味です。廣惠院は再び済衆院に改称されますが、それも論​​語の博施濟衆に出てくる言葉です。広く施し人を救済するという意味です。これは延世大学のセブランス病院の前身になります。   宣教師は、病院を建て病人を直し、学校を建て文を教えました。それはすなわち病と無知から解放するために来られたイエス・キリストを伝えることであったからです。彼らは教会よりもまず病院と学校を建てました。教会が利己的な利益集団に変わってしまうなら、それをキリストの教会ということはできません。キリストに従う人は条件なしに病と苦みと貧しさから解放し、無知と誤解から先導しました。そのような働きのために自分の人生をささげ、仕え、治すために医学を勉強し、宣教するために自分の時間と財産をささげ、やがて自分の命までもささげました。   先週の日曜学校の説教でトーマス宣教師の話しをしました。英国ウェールズでは、中国の宣教師として行ったトーマスは、中国で妻が死ぬ悲しみを経なければなりませんでした。宣教地で一人残されたトーマスは、朝鮮に行って宣教することを決心し、ゼネラル・シャーマン号に乗って朝鮮に入ってきますが、当時鎖国していた朝鮮は、トーマスを殺してしまいます。自分を殺している兵士にトーマスは漢字のヨハネの福音書を渡します。それがある人の部屋の壁紙となり、その部屋に泊まった人は聖書を読み信者になります。そしてその家が韓国初の教会となりました。   中国宣教のハドソン・テイラーの働きに匹敵する主要な人物がブランソンという宣教師です。 19世紀後半の近代福音運動とムーディーによる霊的的なリバイバルを経験した米国の多くの青年たちはブランソンによって中国宣教に送られます。ブランソンは宣教に献身された青年たちを中国に送る一方、何人かを、中国ではなく、日本に下ろします。それで19歳の少女をはじめとする若者の宣教師が横浜に到着しました。彼らは山間の僻地を選び、貧しい所を宣教しました。それは私たちの教会が属している日本同盟基督教団の始まりです。   ブランソンが中国にいたときに、韓国で宣教していた医師宣教師ハーディが、経験の豊かな牧師宣教師であるブランソンに助けを要め、ブランソンが来たことがあります。今の北朝鮮の東の方、査經會(聖書を読む会)を導くように指導しますが、聖書を読む場所でリバイバルが起こり始めました。そのように起こった元山リバイバルは、ついに平壌大リバイバルに広がっていきます。日本同盟基督教団と朝鮮の平壌大リバイバルの歴史は、ブランソンという宣教師によって縁がつながっています。   彼らの仕事が医者であれ、牧師であれ、学者であれ、また彼らの行き先が中国であれ、日本であれ、韓国であれ、彼らは皆、故郷と親と職業を置いてきた宣教師です。他国の地で家族の死という悲しみも経験しました。韓国の宣教師の墓域、楊花津には、赤ちゃんの墓だけで作られた丘があります。痛みを覚えざるを得ませんが、しかし、彼らはむしろ慰めを伝えるものだったのです。その慰めは、宣教師の慰めではなく、宣教師を通じたキリストの福音の慰めであります。   今朝の本文に弟子の一人が「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」といいます。ところが、イエス様は断ります。誤解してはならないことは、父親がなくなったのでお葬式をあげますということではありません。親の世話をする義務を果たしたいという意味です。もちろん、聖書は東洋思想以上に親を敬うことをを強調しています。しかし、宣教の召しの前に、個人や家族の現実という条件がつくならば、どんな人であっても日本にも朝鮮にも宣教師としては来れませんでした。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、宣教の実は、唯一なこと、献身によって成長します。イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。22」

마태복음 QT17 20210130토【너는 나를 좇으라 】마태 8장 14~22

마태 8장 14~228:14 예수께서 베드로의 집에 들어가사 그의 장모가 열병으로 앓아 누운 것을 보시고8:15 그의 손을 만지시니 열병이 떠나가고 여인이 일어나서 예수께 수종들더라8:16 저물매 사람들이 귀신 들린 자를 많이 데리고 예수께 오거늘 예수께서 말씀으로 귀신들을 쫓아 내시고 병든 자를 다 고치시니8:17 이는 선지자 이사야로 하신 말씀에 우리 연약한 것을 친히 담당하시고 병을 짊어지셨도다 함을 이루려…

マタイによる福音書 QT16 20210129金【一言、与えたまえ】マタイ 8章 1~13

マタイ 8章 1~138:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。   百人隊長の愛するしもべが病気になって死にかかっていました。百人隊長はしもべの治療のために苦労をしましたが、治らなかったです。ルカを参考にすると、百人隊長はユダヤ人の長老数人をイエス様のところに遣わしましたが、長老たちはイエス様に百人隊長が自分たちのユダヤ人のためにシナゴーグを造ってくださった人であることを言いました。百人隊長は、ローマからカペナウムに派遣された職業軍人です。彼が自分に仕えるしもべを愛し、ユダヤ人のためにしたことを見ればあわれみと人に対する丁寧さのある人かと思います。   百人隊長はイエス様が自分の家に向かおうとしたときに、「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と言います。イエス様はこれに驚き、「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。10」とその信仰を賞賛しました。誰でも病気になることがあれば救いを求めます。その瞬間には、無神論者もなく不信者もいません。わらさえもつかみたいのです。緊急なときには人は急心に祈ります。ところが、百人隊長は、落ち着いた人格的な人です。まだ、家に着く前ですが、道の上で「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と言いました。   百人隊長は、イエス様を信じましたが、正確にはイエス様の御言葉を信じていました。その言葉の力を信じています。御言葉がすなわち実際であるということを信じていました。百人隊長は確かにしもべが癒される現象を望んでいますが、その現象に執着せず、​​御言葉に注目しています。危機の瞬間に必要なのは、主の御言葉です。自分のために与えられる一言の神様の御言葉です。「一言だけいただければ私は生かされます」という告白です。危機と苦難の中、神様に出会ったという証は多くありますが、危機と苦難から救われたとしても、それが必ずしも神様に会うことではありません。危機から救われた超越的な神秘があったから神様に出会うのではなく、それをきっかけにして、神様との対話が始るという人格的な関係があったから、神様に出会うのです。現象を確認の前に御言葉を信じることが信仰です。ですから信仰は人格です。   一昨日に他界10周年を迎える作家の故朴婉緖(パク・ワンソ)は夫を失った四か月後に息子をも事故で失いました。当時、イエス様を信じてもいなかったですが、イエス様に救いを祈る間もなく一人息子が死にました。教養深い文学家は部屋に閉じこもり獣のように泣き叫んだということでした。生きるために文を書かなければならたもので、その痛み時に書いたのは、多くの時間を過ぎた後に本になりました。その本のタイトルがし『一言、与えたまえ』です。神様が一言、御言葉を与えてくださったので自分の命の死ぬよりも苦しい子どもの死を耐えられたと思います。 サムエルは、不妊の女性の体で奇跡的に生まれましたが、神様が神秘の中で、サムエルに現れた時、サムエルは言います。「お話しください。しもべは聞いております」私たちには、生老病死と生死禍福のすべての瞬間に、主の御言葉が必要です。私のみに与えてくださる御言葉が必要です。それは実在です。危機の中から生かしてくださる恵みも主の御言葉の恵みであり、失った痛みの上に立ち上がらせてくださる恵みも、主の御言葉です。今日、私の中で私を救う一言の御言葉があることを祈ります。

마태복음 QT16 20210129금【한 말씀만 하소서】마태 8장 1~13

마태 8장 1~138:1 예수께서 산에서 내려오시니 허다한 무리가 좇으니라8:2 한 문둥병자가 나아와 절하고 가로되 주여 원하시면 저를 깨끗케 하실수 있나이다 하거늘8:3 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 즉시 그의 문둥병이 깨끗하여진지라8:4 예수께서 이르시되 삼가 아무에게도 이르지 말고 다만 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 모세의 명한 예물을 드려 저희에게 증거하라 하시니라8:5…

マタイによる福音書 QT15 20210128木【現象と本質】マタイ 7章 13~29

マタイ 7章 13~297:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。   「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。14」狭く見えますが、実は欲望と虚像の大きい門を捨てることであるため、でむしろ安全な道です。狭い門に入れば、より詳しく見えます。ですから、神様の御言葉に基づいて選択を行うというのは現実的であり、具体的なことです。恐ろしいことですが、人の根本は実で知ることができます。間違いなく選択は結果を生みだすからです。衣を着ていても裸のようにさらされます。本質は現象を通して自分を現します。物事の道理を言うということは、現象の中から本質を読み取ることです。良い木が良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶということは、理にかなっていることです。悪い実を結んだ木に対して悪い木だと言っても、その木に言い訳はできません。良い実を出すのが良い木だからです。   本質を追い求める人は、価値に焦点を当てます。しかし、現象を追う人は実を飾ります。たとえ「主の名によって預言し、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行っでも、主は彼を知らない」ということは恐ろしいです。中身のない実です。その偽善から自分を守るのは、24節以下です。「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。24」「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者」は、大きい門と偽預言者の惑わしに打ち勝ち、悪い実を結びません。神様の御言葉を聞き、それに従い、行うからです。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。25」、神様の御言葉が客体ではなく、主体となった人には、たとえ門が狭くても悪な者たちの貪欲と偽善の泥沼に落ちません。

마태복음 QT15 20210128목【현상과 본질】마태7장 13~29

마태7장 13~297:13 좁은 문으로 들어가라 멸망으로 인도하는 문은 크고 그 길이 넓어 그리로 들어가는 자가 많고7:14 생명으로 인도하는 문은 좁고 길이 협착하여 찾는 이가 적음이니라7:15 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라7:16 그의 열매로 그들을 알찌니 가시나무에서 포도를, 또는 엉겅퀴에서 무화과를 따겠느냐7:17 이와 같이 좋은 나무마다 아름다운 열매를 맺고 못된 나무가…

マタイによる福音書 QT14 20210127水【批判の意味】マタイ 7章 1~12

マタイ 7章 1~127:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。   イエス様が「さばいてはいけません」と言われたのは、善悪を区別しない、または不義に無関心であれとか、それらに沈黙しなさい、という意味ではありません。山上の垂訓の後半でイエス様は偽りと真実を見分けるように言われましたが、正当な批判意識がなくては見分けることはできません。霊的な覚醒とは、堕落の自覚であり、それは良心の中に宿る批判意識の力だからです。   ところが、批判が何なのか、その定義と解釈も経ないまま分別を根本的に禁じるということには、信仰を愚民化し、全体化するような意図が隠されているのです。不義を容認、黙認させるための道具として、この御言葉を悪用してはなりません。そのようなことについてはは、当然の厳しく批判しなければなりません。   一方、批判はしますが、その動機が相手を引き下げ、自分を上に上がらせるための場合があります。これらは、一見、改革的に見えるかもしれませんが、高度に計算された機会主義です。それは発展のための健全な批判ではなく、分裂させ、誤解させ、量り与えられないさばきになります。   時には批判してはならないし、時には批判しなければなりません。問題は動機です。今朝の本文を読みながら、新しい事を発見しました。7章に入って「さばいてはいけない」という御言葉が6節まで、それから7節から11節までが「求めなさい」という祈りの御言葉が続きます。「批判の主題」は終わり、「祈りの主題」が始まったと思いましたが、続く12節は、再び批判の主題に戻ります。 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」で終わります。   まとめてみると、「さばいてはいけない → さばくならまず自分から振り返る → 求めれば与えられる。探せば見出す。たたければ開かれる。 → 神が良いものをくださる →  ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」このような編集から分かるのは、7節から11節までにある「求めなさい」というメッセージが、その前の「さばいてはいけない」というメッセージと別々に離れたものではなく一つにつながっているメッセージである、ということです。   批判の動機は「ねたみと嫉妬」です。人を引き下げ、自分をえらくするためのことでした。ということで「さばく者の動機はねたみと嫉妬である」を挿入すると、文脈は自然に流れます。イエス様は、「ねたみと嫉妬の動機で人をさばかず、相手を理解すること、そしてあなたにとって良いものは神様に求めてもらいなさい」と整理してくださったのです。  

마태복음 QT14 20210127수【비판의 의미】마태7장 1~12

마태7장 1~127:1 비판을 받지 아니하려거든 비판하지 말라7:2 너희의 비판하는 그 비판으로 너희가 비판을 받을 것이요 너희의 헤아리는 그 헤아림으로 너희가 헤아림을 받을 것이니라7:3 어찌하여 형제의 눈속에 있는 티는 보고 네 눈속에 있는 들보는 깨닫지 못하느냐7:4 보라 네 눈속에 들보가 있는데 어찌하여 형제에게 말하기를 나로 네 눈속에 있는 티를 빼게하라 하겠느냐7:5 외식하는 자여 먼저 네 눈속에서…