マタイによる福音書 QT13 20210126日【何に責任を持っていますか?】マタイ6章 25~34

マタイ6章 25~346:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。   神様を信じなければ、論理的に人間はおのおの生きる道を図らなければなりません。そのために熱心と責任感を持つことができると思いますが、残念ながら人間には自分に必要なすべてを賄うような能力がありません。神様が造られた1次的材料がなければ、何も創造できないし、神様から与えられなければ自分の手で作り上げるものは何一つありません。   ですから責任というのは、すぐに不安になります。神様がいない人間の熱心のもとは不安ですから、その不安は食べるもと、飲むものが揃ったからといって消えることではありません。消費もしたがって増え、果てしなく蓄積する必要が増えてきますす。それを追い求める間に、本当に大切なものは消えてしまいます。   心配は神様のない人の習慣です。しばらくの安息を楽しむこともできません。平安は供給を増やそうとする熱心ではなく、神様を認めることからきます。自分の人生に責任を負うということは、神様の外で自分の必要を供給しようとするのではなく、神様を認め、神様の中で生きることです。それが積極的な責任を持っている人です。   最近、責任という言葉が歪んでいると思うことがあります。人々は責任の所在を分けるために数多くの契約書を書き、法律を検討し、事務的、行政的な仕事を増やしていきます。そのようなものにはんこを押すことをに責任を感じます。責任を負わないことに対してそのような処理をしていなければ心配して不安になります。最近使っている責任という言葉は、ほとんどこのようなの消極的な意味の責任かと思います。   イエス様の教えの中で、聖徒の責任というのは、生活のためではなく、神の国とその義を求めることです。働きは始まらなければ負うべき責任はありません。しかし、それは責任関係を安全に設けたということではなく、無責任なままなのです。聖徒にはやらなければならないことがあります。私たちが持つべき責任というものは、損害の責任所在を設定するのではなく、神様の働きを積極的に推進していく責任ではないでしょうか?神様の働きを自分の責任にして働いている人の明日のは、明日が心配するのです。  

마태복음 QT13 20210126화【무엇에 책임감을 가지고 계십니까】마태6장 25~34

마태6장 25~346:25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 목숨이 음식보다 중하지 아니하며 몸이 의복보다 중하지 아니하냐6:26 공중의 새를 보라 심지도 않고 거두지도 않고 창고에 모아 들이지도 아니하되 너희 천부께서 기르시나니 너희는 이것들보다 귀하지 아니하냐6:27 너희 중에 누가 염려함으로 그 키를 한 자나 더할 수 있느냐6:28…

マタイによる福音書 QT12 20210125月【天に蓄える宝】マタイ6章 16~24

マタイ6章 16~246:16 あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。6:17 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。6:18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。6:22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。   イエス様が荒野でサタンに試みを受けたとき、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。4:4」と言われました。パンだけで生きるのではないということは、経済的価値だけが人生の全てではないということですが、裏を返して言えば、人においてパンは不可欠なものであるということの意味を既に含んでいることでもあります。その間に不安と絶望があります。経済力が高いということは良いことでしょうが、それには限りがないもので、より多くのことを欲しがるので、人間を貪欲と不安に追いやっていきます。一方、経済力が足りないということの弊害は人間を疎外し、絶望させることです。   強者の不安は高慢と暴力であり、弱者の絶望は恥とうつに現われます。経済というものはそもそも不安なものです。持っている者でとっても持たない者にとっても、そのような不完全なものにすべてかけてしまうから不安になることは当然のことかもしれません。消費がすなわち幸福だと定めたしてしまった時代にはより多くの消費のために蓄積しなければ不安になり、他人よりも消費できなければ憂うつになります。結局、人間はお金を消費するのではなく、経済によって人間が消費されてしまうのです。私たちは、当たり前のようにこれに支配されていますが、これが正常ではないことに気づかなければなりません。   本文は「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい19」と言っています。神の国を簡単に定義するには難しいのですが、神の国といえば少なくとも神様が支配する国であります。神様と富を兼ね仕えることはできません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあると言われます。聖徒が神の国を求め、実践するということは、利己的な動機で消費し、蓄積するのではなく、利他的な動機で分け与え、施すことに移行する場合にのみ可能になります。それが、今朝の本文で言う「天に蓄える宝」です。    

마태복음 QT12 20210125월【하늘에 쌓아 두는 보물】마태6장 16~24

마태6장 16~246:16 금식할 때에 너희는 외식하는 자들과 같이 슬픈 기색을 내지 말라 저희는 금식하는 것을 사람에게 보이려고 얼굴을 흉하게 하느니라 내가 진실로 너희에게 이르노니 저희는 자기 상을 이미 받았느니라6:17 너는 금식할 때에 머리에 기름을 바르고 얼굴을 씻으라6:18 이는 금식하는 자로 사람에게 보이지 않고 오직 은밀한 중에 계신 네 아버지께 보이게 하려함이라 은밀한 중에 보시는 네…

한국어 예배 (2021-01-24)

여호수아 2:1-141 눈의 아들 여호수아가 싯딤에서 두 사람을 정탐으로 가만히 보내며 그들에게 이르되 가서 그 땅과 여리고를 엿보라 하매 그들이 가서 라합이라 하는 기생의 집에 들어가 거기서 유숙하더니2 혹이 여리고 왕에게 고하여 가로되 보소서 이 밤에 이스라엘 자손 몇 사람이 땅을 탐지하러 이리로 들어왔나이다3 여리고 왕이 라합에게 기별하여 가로되 네게로 와서 네 집에 들어간 사람들을…

日本語礼拝 (2021-01-24)

ヨシュア記 2:1-141 ヌンの子ヨシュアは、シティムから、ひそかに二人の者を偵察として遣わして言った。「さあ、あの地とエリコを見て来なさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。2 ある人がエリコの王に、「イスラエル人の数名の男たちが今夜、この地を探ろうとして入って来ました」と告げた。3 それで、エリコの王はラハブのところに人を遣わして言った。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たちを出せ。その者たちは、この地のすべてを探ろうとしてやって来たのだから。」4 ところが、彼女はその二人をかくまって言った。「そうです。その人たちは私のところに来ました。でも、どこから来たのか、私は知りません。5 暗くなって門が閉じられるころ、その人たちは出て行きました。どこへ行ったのか、私は知りません。急いで彼らを追ってごらんなさい。追いつけるかもしれません。」6 彼女は二人を屋上へ上がらせ、屋上に積んであった亜麻の茎の中におおい隠していた。7 追っ手たちはヨルダン川の道をたどり、渡し場までその人たちを追って行った。門は、彼らを追う追っ手たちが出て行くと、すぐに閉じられた。8 二人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところへ上がり、9 彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。10 あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。11 私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。12 今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」14 二人は彼女に言った。「私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。」

マタイによる福音書 QT11 20210123土【勝つ信仰】マタイ5章 38~48

マタイ5章 38~485:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。   『目には目を、歯には歯を』と言ったのは、律法が定めたいわゆる同害報復法です。被害を受けた分を返しなさいということで、厳密に言えば、報復してもよいということではなく、被害を受けた分だけ返しなさいということです。人の心は、一発殴られると一発打ちたいのではなく、殺したくなるわけです。憎しみと呪いの感情が入り込むと罪はさらにに大きくなるため、やられた分だけ返すようにという最小限の制限でした。   しかし、イエス様はそれでは勝つことができないと言われるのです。右の頬を打つ者に左の頬も向ける、下着を取ろうとする者に上着もあげる、一ミリオン行くように強いる者と一緒に二ミリオン行くようにと言われます。やられた分を返さずに、かえって不当に求める分以上に与えなさいということです。自分の正当性の中で怒っている人ではなく、世と人を支配している罪のゆえに悲しむ人です。   悪は常にあり、善が忍耐を失ってしまうとの戦いが常に起こります。ところが、戦いはいつも悪が勝つものです。悪は謝罪せず、和解もしません。だから善が正当であっても血を流すのは民です。ということでこの教えは決してやられるまま我慢するということではありません。神様の民を守るためにあるものです。   戦いを止めるのは、善良な人です。不当な要求だと思って拒むとそこで敵になってしまうことがあります。とはいえ強いられると悔しくなるだけです。このようなことは、悪により多くの口実を与えます。しかし、それを超えていくと、むしろ主導権を握ることができます。無理に一ミリオンを行かせる人の荷物を持って二ミリオンを同行してあげれば、向こうはもはや敵でなくなります。   悪にやられても我慢しなさいということではなく悪に負けず善をもって利己的な世に勝てる方法を教えてくださるのです。愛する人だけ愛しているなら、愛する人の間でも、また不和が生じます。愛の器が小さいからです。勝つというのは、誰かを押しつぶし、上に立つことではなく、最終的に平和をつくり、関係をつくることです。敵対する者を自分の器の中に入れてしまえば、その器の中は平和です。  

마태복음 QT11 20210123토【이기는 믿음】마태5장 38~48

마태5장 38~485:38 또 눈은 눈으로, 이는 이로 갚으라 하였다는 것을 너희가 들었으나5:39 나는 너희에게 이르노니 악한 자를 대적지 말라 누구든지 네 오른편 뺨을 치거든 왼편도 돌려 대며5:40 또 너를 송사하여 속옷을 가지고자 하는 자에게 겉옷까지도 가지게 하며5:41 또 누구든지 너로 억지로 오리를 가게 하거든 그 사람과 십리를 동행하고5:42 네게 구하는 자에게 주며 네게 꾸고자 하는…

マタイによる福音書 QT10 20210122金【切り捨てるべきもの】マタイ5章 27~37

タイ5章 27~375:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。5:31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。   兄弟を憎むのは人殺しであるという厳しい勧告の後、イエス様は、女性を見て情欲を抱くことはすでに姦淫したものであると定められます。女性を見て情欲を抱いたため、その右の目をえぐりだし、その右手で触れてはいけないものに触れたため、それを手を切り落さなければならないと言われます。男性ならここでみな絶望します。この御言葉を文字どおりに解釈し、適用するなら、男であるならみな、右の目玉と右手はすでにありません。   ところが、目玉を抜き、手を切ることで欲望が消えるのでしょうか?左の目玉と左手が残っているのではないでしょうか?ギャンブル中毒の人が、止めることを決心して、手を切ってしまっても、残りの足の指と口を使ってギャンブルを続けてしまいます。ただの笑い話ではありません。昔の朝鮮の宦官は去勢されて宮に入ります。去勢されたといって性欲が消えるわけではありません。宦官の中には中国に亡命する者もいたのですが、彼らは朝鮮語を使うので、使臣になって戻ってくることがありました。それは一種の復讐でもありました。彼らが宴会で行う変態的な性欲はとても形容できないものでありました。抑えるからといってそれが消えるわけでもなく、切り離すからといって止められるわけでもありません。   目玉を抜いて手を切るというのは、文学的な誇張法です。目と手というのは、愚かな欲を満たそうとするあらゆる手段です。目と手に問題があるのではありません。医学的には、性欲は、脳の領域であり、それは心の問題であり、考えることの問題です。目を抜いて手を切りというのは性的犯罪に近付く道具と機会を切り捨てるということです。そのような警戒心なしに、または制限なしに許容してしまうと、ある日、突然倒れるかもしれません。   本文はこれに続いて離婚のことに言及した後、誓いについて話します。イエス様は神様の名においても、人の名においても、教会の名前でも、聖徒の名前でも誓ってはならないと言われました。37節「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」は、「はい」と「いいえ」を言わなければならなら時に「はい」や「いいえ」と答えた上に、それに誓いの言葉を付け加えてはならないということです。   確かに誓いをすれば、より積極的な主張になるかもしれません。つまり他の名に頼って自分の真実性を訴えるのです。しかし、弱い意志を持った人間は、自分の誓いによって神様の名を信用できないものにしてしまいます。だからイエス様は「誓うな」と言われました。良いものであるならば、何かで飾る必要も、説明する必要も、ありません。本当に必要なのは、言葉の誓いではなく、心の真実です。  

마태복음 QT10 20210122금【잘라내서 버려야 할 것들】마태5장 27~37

마태5장 27~375:27 또 간음치 말라 하였다는 것을 너희가 들었으나5:28 나는 너희에게 이르노니 여자를 보고 음욕을 품는 자마다 마음에 이미 간음하였느니라5:29 만일 네 오른눈이 너로 실족케 하거든 빼어 내버리라 네 백체 중 하나가 없어지고 온 몸이 지옥에 던지우지 않는 것이 유익하며5:30 또한 만일 네 오른손이 너로 실족케 하거든 찍어 내버리라 네 백체중 하나가 없어지고 온 몸이…