箴言 黙想 【道の上で】20231108(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
箴言 13:13~2513:13 みことばを蔑む者は身を滅ぼし、命令を尊ぶ者は報われる。13:14 知恵のある者のおしえはいのちの泉。これによって、死の罠から逃れることができる。13:15 深い思慮は好意を生む。裏切り者の道は滅びに至る。13:16 すべて賢い人は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める。13:17 悪い使者はわざわいに陥り、忠実な使者は人を癒やす。13:18 貧乏と恥は訓戒をなおざりにする者に来る。しかし、叱責を大事にする者は誉れを得る。13:19 望みがかなえられるのは心地よい。愚かな者は悪から離れることを忌み嫌う。13:20 知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。13:21 わざわいは罪人を追いかけるが、正しい人は幸いで報われる。13:22 善良な人は子孫に遺産を残す。罪人の財産は正しい人のために蓄えられている。13:23 貧しい者の耕地に、多くの食糧があっても、それは不当に取り去られる。13:24 むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。13:25 正しい人は食べてその食欲を満たし、悪しき者は腹をすかせる。 神様が道を造られます。人は道を造ることではなく、神様が造られた道を尋ね、見つかることです。そのため、道を伝えることを伝道といいます。人が何か新しいことに挑戦して何かを成し遂げたとしても、人が道を作り出したのではなく、道を見つけただけです。イザヤ43章の希望、「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。43:19」ここで「わたし」は神様です。荒野に道を造り、荒れ地に川を設ける主体は不屈の信仰を持ったある人ではなく神様です。神様の御言葉が荒野という現実で道を造ると言われる時、それを信じる人、荒れ地という絶望の中に川が流れると言われる時、その御言葉を信じ、聞き従うな人が神様の道を見つけます。 神様のご用意なさった道を発見するには、神様の御言葉の中にとどまらなければなりません。今日の本文で、「みことばを蔑む者は身を滅ぼし」と言いました。御言葉を蔑視するのは、主人が神様ではないからです。神様を主人にする人は、御言葉を通して神様のみ旨を見つけ出し、それを行います。それに時間を使い、行うために自分の大切なことを使います。ところが、神様が主人でない人は自分の大切なことのために御言葉に従いません。御言葉を蔑視するのは、世が主人であり、それに忠誠を尽くしているからです。人々に付いて広い道を通っていますが、その道の端で会うのは神様の慰めではなく虚しさです。 今日の本文には、よく論争の話題になる子どもの体罰の内容があります。「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。13:24」この御言葉を家庭内暴力、児童虐待と理解するのは間違いです。これは暴力や虐待に関する御言葉ではなく、どうしても自分の大切な子どもが自ら罪の本性を抑え、神様の御言葉に生きるように教えなければならないという切迫さです。神様の御言葉の中で道を探さなければならないからです。 神様の道の上を歩む一日になりたいと思います。