コロサイ人への手紙 黙想 【聖者か、聖徒か】20231207(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
コロサイ 3:12~173:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。3:17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。 コロサイ人への手紙の前半部の教理的な内容はキリストがすべて、宇宙万物のかしらなるキリスト、すなわちキリスト論です。キリストを証していた手紙はキリストによって生まれ変わった聖徒の身分について話し、3章の後半の今日の本文では教会を構成する聖徒の倫理的な生き方について話しています。キリスト論から教会論が出なければならなかったのは、キリストに出会った人々は教会が建てられなければならなかったからです。パウロは続いて聖徒の倫理的生活について話しましたが、キーワードは、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し合い、愛です。これは前の内容とつながりはないでしょうか。その人格の程度、倫理と道徳というものは、キリスト論から続く教会論とは別のものでしょうか? 今日の本文には、慈愛と親切のような肯定的なおすすめですが、ある書簡では否定的な弊害と罪を厳格に禁止する倫理もあります。パウロが言うすべての倫理は一貫して「教会のための倫理」です。人間が宗教的遂行を通じて到達しなければならない聖化の状態を求めているのではなく、教会の中での葛藤と問題を解決するための関係上の配慮と注意を呼びかけているのです。深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し合い、愛を言い換えると、教会の中で気に入らない人がいても哀れみ、自分自身を振り返ってへりくだる、戦わずに、穏やかに話し、嫌ても我慢し、受け入れ、赦し合い、やがて愛することができるようにすることです。 ところが、時間が経って本来の意味を誤解した時代は、それを守ることが救いの条件であるかと思い、律法主義の罠に陥りました。それで守れない自分、意志が働かない自分を悲観して自責しました。しかし、その本来の目的は欲望と罪から完全に抜け出した聖者になることではなかったのです。不完全な人間が構成する教会を秩序あるものにするための訴えていたのです。パウロの口調はこんなものです。「教会の中で憎み合い、戦い合い、悪口を言い合えばキリストの名はどうなりますか?信じると言いながら教会の外でそんな悪いことをしたら教会の顔はどうなりますか? 私が普段追い求める教会論は今日の本文16節です。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。16」言葉が牧師にあるのではなく、聖徒の中に豊かにあると言いました。そんな人たちが集まって知恵の言葉で教え合います。相互効果です。教えながら学び、学びながら教えます。詩と賛美と霊の歌は詩篇と賛美歌を歌おうではなく、自分の告白の詩を書き、歌を歌うということです。コロサイ教会がパウロの言葉を聞いて実践していたら、御言葉と教育と賛美が聖徒によって主体的な教会になったと思います。