【멍:때림】

  유학 시절에 긴 시간을 통학했다. 전철 안에서 생산적인 일을 하기 위해 책을 읽기도 하고 큐티를 하기도 하고 노트북을 열어 무언가 작업을 하기도 했다. 그러나 경험상 잠자는 것이 가장 생산적이라는 것을 알게 되었다. 노란색 소부센은 요람처럼 흔들렸고 나는 그 안에서 익숙하게 잠이 들었다. 벽에 머리가 부딪히는 소리가 들릴 때면 그것이 알람인 줄 알았고, 내릴 때…

コロサイ人への手紙 黙想 【最後から振り返る最初】20231201(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

コロサイ人への手紙 1:1-8 1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、 1:2 コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。 1:3 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。 1:4 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。 1:5 それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。 1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。 1:7 そういうものとして、あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、 1:8 御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。  一年の最後の月である12月に入りました。 今頃、一年の始まりを振り返るプログラムがあちこちで行われます。 このような一年の終わりにコロサイ人への手紙を黙想するのは本当に貴重な時間になると思います。    パウロの手紙にはそれぞれ強調される神学的なテーマがあります。 それは今日から始まるコロサイ人への手紙もです。コロサイ人への手紙は特にキリストに関すること、キリスト論と呼ばれるテーマを中心に扱っています。 使徒パウロはコロサイ人への手紙を通してキリストがどんなお方であり、そのお方が私たちのためにどんなことをなされたのか、私たちの信仰の最初となるイエス·キリストについて伝えているのです。    一年の最後の12月となり、一年の最初である1月を振り返ってみると、いつの間にか薄れた記憶も、鮮やかに残っている記憶もあるでしょう。 小さな事件や瞬間は忘れられ、大きくて重要だった事件は記憶に残るのが当然です。    私たちの信仰の旅を振り返ってみると、どんなことが鮮やかに残っているのでしょうか。 色々な誓いと成長のために努力した時間が思い浮ぶ中で、その始まりである純粋なキリストの福音はどれほど鮮やかに浮んでいるでしょうか。    主日に行われたダラント市場で、子供たち一人一人が福音を聞き、迎接の祈りをしました。 主日学校の説教の半分にも届かない短い時間の間に伝えた短い文章、その純粋な福音がその子供たちの一生にわたる信仰の旅の第一歩となるのです。    一年の最後の12月は、一年の始まりである1月なしには来ません。 ですから私たちは今頃その始まりを振り返るのです。同じく、私たちの信仰の旅は福音を説明するその短い文章を省略してからは始まりません。 ですからその始まりを振り返り、調べなければなりません。    この一年の最後からその最初を振り返ると同時に、今までの信仰の旅とその最初を振り返り、私たちの信仰の最初であるイエス·キリストの福音という基礎がさらに堅くなっていくこの時期を過ごしたいと思います。 https://youtu.be/oA7pzzRheFc?si=1614IKBuW0Kc_4E1

골로새서 묵상 【끝자락에서 돌아보는 시작】 20231201(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

골로새서 1:1-8 1:1 하나님의 뜻으로 말미암아 그리스도 예수의 사도 된 바울과 형제 디모데는 1:2 골로새에 있는 성도들 곧 그리스도 안에서 신실한 형제들에게 편지하노니 우리 아버지 하나님으로부터 은혜와 평강이 너희에게 있을지어다 1:3 우리가 너희를 위하여 기도할 때마다 하나님 곧 우리 주 예수 그리스도의 아버지께 감사하노라 1:4 이는 그리스도 예수 안에 너희의 믿음과 모든 성도에 대한 사랑을 들었음이요  1:5 너희를 위하여 하늘에…

ゼパニヤ 黙想 【喜びをたえられず】202311230(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼパニヤ 3:9~203:9 そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。3:10 クシュの川の向こうから、わたしに願い事をする者、わたしに散らされた者たちがわたしへの贈り物を携えて来る。3:11 その日、あなたはわたしに背いて行ったすべての行いのことで、恥を見ることはない。そのとき、わたしがあなたのただ中から、おごり高ぶる者どもを取り除くからだ。あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。3:12 わたしはあなたのただ中に、へりくだった、貧しい民を残す。彼らは主の名に身を避ける。3:13 イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを言わない。その口の中に欺きの舌は見つからない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はいない。」3:14 娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。3:15 主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。3:16 その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。3:17 あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。3:18 「例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたから離れていた。そしりがシオンへの重荷であった。3:19 見よ。わたしはそのとき、あなたを苦しめたすべての者を罰する。わたしは足を引きずる者を救い、散らされた者を集め、彼らの恥を全地で栄誉ある名に変える。3:20 そのとき、わたしはあなたがたを連れ帰る。そのとき、わたしはあなたがたを集める。まことに、あなたがたの目の前でわたしがあなたがたを元どおりにするとき、わたしは、地のあらゆる民の間であなたがたに栄誉ある名を与える。──主は言われる。」   第3章の最後はさばきの後に来るべき回復を預言です。「あなたを苦しめたすべての者を罰する。わたしは足を引きずる者を救い、散らされた者を集め、…19」。神様は敵を滅ぼし、ユダを回復させます。ところがユダのその敵とは、厳密にバビロニアという国ではありません。神様がバビロニアに負けたからユダが滅びたわけではありません。神様の必要に応じてバビロニアが用いられただけです。ユダの敵は彼らの高慢でした。高慢がなくなるまでユダの民は苦しみなければなりませんでしたが、神様もこれまで戦われました。神様の選ばれた民たちの高慢と戦ったのです。   やがてその苦痛が終わり、ユダの心が回復されるとき、神様は感激で喜ばれます。「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。17」この回復の状態は、神様を礼拝する一人の人間の純粋性が回復した状態です。今日の本文から回復された後のユダは「唇を変えて清く、主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える 9、贈り物を携えて来る 10、高ぶることはない、11、喜び歌う、喜び叫ぶ 14、恐れることはない15」 ユダは苦しみを通り、新しい人になりました。誰においても苦しみは歓迎するできないものですが、痛みの涙は汚がれた人間を浄化します。   11月の終わりにゼパニヤを読んで考えました。いかなる場合でも、苦しみの時間がなければ何も作られないということに気がつきました。神様はユダの苦しみを免除することはありませんでした。痛みの時間が過ぎてから回復するからです。「Revival」という言葉は「回復」の意味です。人間は喪失と苦しみの時間を通りながら神様を発見し、また自分自身をも発見します。それで、謙遜な礼拝者として回復することができます。回復されるところは、人間のあるべきところです。神様の前で人間に戻ることがリバイバルです。神様はゼパニヤ3章の浄化された霊性を大いに喜ばれました。そして約束されました。 「地のあらゆる民の間であなたがたに栄誉ある名を与える 20」

스바냐 묵상 【기쁨을 이기지 못하여】 20231130(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스바냐 3:9~203:9 그 때에 내가 열방의 입술을 깨끗케 하여 그들로 다 나 여호와의 이름을 부르며 일심으로 섬기게 하리니3:10 내게 구하는 백성들 곧 내가 흩은 자의 딸이 구스 하수 건너편에서부터 예물을 가지고 와서 내게 드릴지라3:11 그 날에 네가 내게 범죄한 모든 행위를 인하여 수치를 당하지 아니할 것은 그때에 내가 너의 중에서 교만하여 자랑하는 자를 제하여 너로…

ゼパニヤ 黙想 【創造的破壊】202311229(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ゼパニヤ 3:1~83:1 わざわいだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都。3:2 呼びかけを聞こうともせず、戒めを受け入れようともせず、主に拠り頼まず、神に近づこうともしない。3:3 その都の高官たちは都の中で吼えたける雄獅子。その都をさばく者たちは夕暮れの狼。朝まで骨をかじってはいない。3:4 預言者たちは、ふしだらで裏切る者。祭司たちは聖なるものを冒して、みおしえを冒瀆する。3:5 主は、そのただ中にあって正しく、決して不正を行われない。ご自分の公正を、朝ごとにくまなく照らす光とされる。しかし、不正を働く者は恥を知らない。3:6 「わたしは諸国の民を断ち切った。その四隅の塔は荒れ果てた。わたしは彼らの通りを廃墟とした。通り過ぎる者はだれもいない。彼らの町々は荒れすたれた。人は一人もおらず、住む者もいない。3:7 わたしは言った。『あなたはただ、わたしを恐れ、戒めを受け入れよ。そうすれば、わたしがこの都をどれほど罰しても、その住まいは断ち切られない。確かに彼らは、繰り返してあらゆる悪事を行ったが。』3:8 それゆえ、わたしを待て。──主のことば──わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集め、わたしの激しい憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注いで、わたしのさばきを下すからだ。全地は、わたしのねたみの火で焼き尽くされる。   神様がユダに対して反逆と汚れに満ちた暴虐の都と怒ったのは、彼らが神様の御声を聞かず、聞き従わず、神様に近づかず、頼りもしなかったからです。政治家と宗教家については、雄獅子と狼に例えました。民を食う獣に比べたものです。しかし、確かなことは、彼らが意志をもって神様の御言葉を聞かなかったり、わざと悪事を犯すことではありません。彼らはそれを行うことができない不能な状態でした。ゼパニヤの時代に生きた人々も宗教から外れたことはありませんでした。彼らは神いつも様について熱心であると思っていました。悔い改めをしなかったのではなく、よく信じていると勘違いしていました。だから、悔い改められない不能な状態になったのです。神様はその上に人間と社会を回復するために彼らの環境を破壊し、苦痛を与える方法で彼らに対する愛を表します。   彼らが形式化された宗教の中で信念を持ちながら矛盾した生き方をしていたのは、根拠のない楽観論のためです。彼らは自分が信じる神様が自分を守り、社会的に、経済的に自分を向上させると考えていました。それを考えるたび、話すたび、聞くたびに信念はさらに強められ、宗教的には熱心の状態になったのです。アーメンという声が大きくなります。しかし、そのような楽観論には根拠がありません。存在もしない神を自分の中に作り出し、それを神様と呼びます。彼らは情熱的ですが、神様の御言葉について無知です。知るとしても部分的または断片的です。誤用し、盗用し、乱用します。根拠のない楽観論に陥った人々が失敗を経験する時は神様を恨みます。そして、双極性悲観論に陥ります。少し自信がつく時は神様を意識せずに生きますが、世にやられると落ち込んで敗北主義者になります。   旧約の預言者たちからの警告を読む時に私たちが得られる教訓というのは「ユダは偶像崇拝したからダメだ」とか「私は悔い改めてきちんと信じる」等ではありません。偶像は神堂にあるのではなく、自分の中にプライドと自信感と確信と安定の形であります。自分を壊すことなく上品な祈り方で悔い改めることはできません。政治の権力を持つ人は、力を奪われる前に自ら変わることはありません。宗教的腐敗も神様のためであると言います。自分が自分をだましておいたから、疑わず堅く信じることができます。滅びる前には変わりません。だから、滅びることが望みです。今まで守っていた環境が崩れる時、その時が神様が私の中で働く時です。破壊せずには創造はできません。悔い改める時、涙を流しますか?涙は自己憐憫かもしれません。自己否定を越え、自己破壊をしなければ、悔い改めには触れません。自分に対して怒らなければ悔い改めることはできません。

스바냐 묵상 【창조적 파괴】 20231129(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스바냐 3:1~83:1 패역하고 더러운 곳, 포학한 그 성읍이 화 있을진저3:2 그가 명령을 듣지 아니하며 교훈을 받지 아니하며 여호와를 의뢰하지 아니하며 자기 하나님에게 가까이 나아가지 아니하였도다3:3 그 가운데 방백들은 부르짖는 사자요 그 재판장들은 이튿날까지 남겨 두는 것이 없는 저녁 이리요3:4 그 선지자들은 위인이 경솔하고 간사한 자요 그 제사장들은 성소를 더럽히고 율법을 범하였도다3:5 그 중에 거하신 여호와는…

ゼパニヤ 黙想 【領域主権】202311228(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ゼパニヤ 2:4~152:4 まことに、ガザは捨てられ、アシュケロンは荒れ果てる。アシュドデは真昼に追い払われ、エクロンは根こそぎにされる。2:5 わざわいだ、海辺に住む者たち、クレタ人の国。主のことばはおまえたちに向けられている。「ペリシテ人の地、カナンよ。わたしはおまえを消し去って、住む者がいないようにする。」2:6 海辺よ。おまえは牧場となり、牧者たちの牧草地となり、羊の囲い場となる。2:7 海辺はユダの家の残りの者の所有となる。彼らは海辺で羊を飼い、日が暮れると、アシュケロンの家々で横になる。彼らの神、主が彼らを顧みて、彼らを元どおりにされるからだ。2:8 「わたしはモアブのそしりと、アンモン人の、ののしりを聞いた。彼らはわたしの民をそしり、自分の領土のことで高ぶった。2:9 わたしは生きている。──イスラエルの神、万軍の主のことば──それゆえ、モアブは必ずソドムのようになり、アンモン人はゴモラのようになり、いらくさの茂る所、塩の穴、とこしえに荒れ果てた地となる。わたしの民の残りの者が、そこをかすめ奪う。わたしの国民の生き残りが、そこを受け継ぐ。」2:10 これは彼らの高慢のためだ。彼らが万軍の主の民をそしり、これに向かって高ぶったからだ。2:11 主への恐れが彼らに下る。主が地のすべての神々を消し去られるからだ。人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝する。異国のすべての島々も。2:12 「あなたがた、クシュ人も、わたしの剣で刺し殺される。」2:13 主は手を北に向けて伸ばし、アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ果てた地とし、荒野のようにし、砂漠とされる。2:14 その中に、獣の群れが、あらゆる地の獣が伏す。ふくろうと針ねずみは、その柱頭をねぐらとし、その鳴き声は窓に響き渡り、荒廃は敷居に及ぶ。まことに、その杉材が剝がされる。2:15 これが、安心して過ごし、「私だけは特別だ」と心の中で言っていた、あのおごった都だ。ああ、その都は荒れ果て、動物の伏す所となる。そこを通り過ぎる者はみな、嘲って手を振る。   神様はユダだけが懲戒されるのではなく、周辺国にも災いを下します。ガザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロン、クレタ、ペリシテ、モアブ、アンモンクシュ、クシュ、アッシリアまですべて懲戒され、滅亡し、荒廃することになります。ユダの懲戒は神様の民が神様から離れたことですたが、周辺国が罰を受けるのは神様から離れたことではなく、神様の民を苦しめ、神様を侮辱したからです。共通分母は高慢です。神様を認めない人の謙遜は謙遜ではありません。それは社会性です。神様を認め、その下にいる人間こそが真の意味で謙遜になれます。周辺国が一時的に神の鞭になったのは事実です。しかし、それを誤解し、高慢になると、使い道を終え、滅亡の道に入ります。   救贖史 (salvation history)から見ればバビロニア帝国の勃興という世界史の事件は神様がユダの考えを変えるためのものでした。考えを変えるために国を滅ぼしたり、帝国を起こしたりします。高慢になった心を変えるためにどれほどのことを払えば合理的でしょうか?神様の経済性は驚くべきものです。人間の考え一つを変えるために国を建てたり、国を滅ぼしたりする方です。神様は御子を肉に送って死なせる犠牲と払われました。神様の愛と救いとは、人間の計算では合理的ではありません。自分では考えることを変えることができないで、環境の変化を通して考えを変えざるえません。だから、人が御言葉を現在的に解釈し、自分を省察し、聞き従う勇気を持てば懲戒を受けずに平安の中で歩むことができます。   周辺国は成功しているように、勝っているように思いましたが、神様はいつも選ばれた民に関心をもっておられます。たとえ、神様の民が罪を犯し、懲戒を受けるとしても、彼らはやがて回復します。その時に嘲って侮辱したものの権利と栄光は回復した民に与えられます。神様は選ばれた民を愛しておられます。そして世も神様の統治の領域です。「領域主権(souvereiniteit in eigen kring):すべては神様に主権があり、この地のどこでもキリストのものではないもののはない。-アブラハム·カイパー-」世の中で愛される子として選ばれ、召されたので、その愛にふさわしく遣わされなければならないと思います。

스바냐 묵상 【영역주권】 20231128(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스바냐 2:4~152:4 가사가 버리우며 아스글론이 황폐되며 아스돗이 백주에 쫓겨나며 에그론이 뽑히우리라2:5 해변 거민 그렛족속에게 화 있을진저 블레셋 사람의 땅 가나안아 여호와의 말이 너희를 치나니 내가 너를 멸하여 거민이 없게 하리라2:6 해변은 초장이 되어 목자의 움과 양떼의 우리가 거기 있을 것이며2:7 그 지경은 유다 족속의 남은 자에게로 돌아갈찌라 그들이 거기서 양떼를 먹이고 저녁에는 아스글론 집들에 누우리니…

ゼパニヤ 黙想 【もし、主の怒りの日に】202311221(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼパニヤ 1:14~2:31:14 主の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。主の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。1:15 その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、1:16 角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。1:17 「わたしが人を苦しめるので、人々は目の見えない人のように歩く。主に対して罪を犯したからだ。彼らの血は、ちりのように、はらわたは、糞のようにまき散らされる。1:18 彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。主のねたみの火で、全土は焼き払われる。主が地に住むすべての人をたちまちのうちに滅ぼし尽くすからだ。」2:1 ともに集まれ、集まれ。恥知らずの国民よ。2:2 御定めが行われて、その日が籾殻のように過ぎ去らないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。2:3 すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。   ゼパニヤの時代は、北イスラエルを滅ぼしたアッシュルが衰退し、まだユダがバビロニアに滅ぼされる前、南ユダにたった3人だけだった良い王の一人であるヨシヤ王が宗教改革をしていた時です。 ゼパニヤのテーマは「主の日」です。主の日というのはさばきの日です。ヨシヤ王が改革を推進しますが、それは未完に終わり、ユダは結局バビロニアに滅びることになります。ゼパニヤは、その日が迫っていることを伝えています。   「…彼らの血は、ちりのように、はらわたは、糞のようにまき散らされる。彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。主のねたみの火で、全土は焼き払われる。主が地に住むすべての人をたちまちのうちに滅ぼし尽くすからだ。1:17,18」それはユダだけに当てはまることではありません。滅亡はバビロニアによるもの、ローマによるものだけではありません。滅亡は誰にでも予定されており、さばきは刻々と迫っています。   「…そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。2:3」、「そうすれば」(אוּלַי)は、「もし」という意味の副詞です。これが持っている望みは大きいです。しかし、この「もし」は「もし神様が心が変わったら」ではなく、「もしあなたが悔い改めれば」です。「もし」の主体は滅亡に向かう民です。彼らが「もし」悔い改めることさえできれば、主の日は、怒りのさばきの日ではなく、神様の救いの日になります。「もし」悔い改めることはできますか?   「もし」の条件は自分の恥を知ること、神様の御言葉を覚えて守ること、義を求め、柔和さを求めることです。「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。…2:3」悔い改めという言葉はいつも聞いていますが、単なる道徳的な反省とは違います。悔い改めは変化の意志もない常套的な自己批判ではありません。 人生の方向を変えるのが悔い改めです。そういう意味で悔い改めというのは一生に何度もできないのかもしれません。しかし、人間が「もし」悔い改めることができれば、神様は「必ず」救われます。