マルコの福音書 黙想 【むしろ仕えるために】 202401230(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マルコの福音書 10:32~4510:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」 イエス様は十字架のことを話されていますが、弟子たちの中でゼベダイの息子たち、つまりヤコブとヨハネはイエス様が執権すれば要職をくださいと求めています。昨日の本文では、ペトロもすべて捨てて献身したから、報いてほしいと言いました。献身を取引しているのです。マタイの福音書によれば、ヤコブとヨハネの母親サロメが主導的にイエス様に献身の報いを求めています。それを見ていた他の弟子たちは怒り、すぐにでも分裂する危機でした。弟子たちが怒ったのも、自分の報いのことを考えていたからです。講壇で十字架の説教が終わるやいなや運営の権限と既得権を巡って争う教会と人々がいるから、その時も今もイエス様の話を聞き取れず十字架の下で席争いする人々は変わらずいます。 イエス様は革命的な逆説を話されました。「偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。10:43-45」ここで「また」と訳されている言葉はギリシャ語で「アラ(αλλα)」ですが、反意的接続詞です。 「しかし、それにもかかわらず、むしろ」という意味です。 神様は仕えるために人の王として来たのではなく、「むしろ」人に仕えるために人のしもべとして来られたのです。 日本語では訳されていないですが、主の祈りの「悪より救いいだしたまえ」の前にも「アラ(αλλα)」があります。適用してみると「我らを試みにあわせず、むしろ悪より救いいだしたまえ。」となります。マタイ福音書7章21節は「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とありますが、ここにも「アラ(αλα)」があります。入れてみると、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、むしろ天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」となります。「積極的」または「逆説的」という意味で「むしろ」です。 すべてのクリスチャンはむしろ、積極的、逆説的に仕える人でなければなりません。それは誰かの有益のために生きることです。それは選択ではないです。それしかありません。なぜなら、それを拒めば、ただ自分のために生きることになるからです。それは失敗です。世の中のすべての職業、教会のすべての役務は仕えるためにあります。仕えられ、支配するための職業と職分は失敗です。そのアイデンティティについて何の異議も言えないのは、イエス様がしもべになって仕えに来られたからです。仕えるということは、単なる親切ではなく、しもべになることです。権威は信頼の中で立てあうことであって、権限はお互いに仕えるためにあるものです。罪人が召されて救われる逆説、絶望が希望に変える逆説を信じるから、仕えることで先頭になる逆説も私たちのものになりたいと願います。