マルコの福音書 黙想 【残らず、退かず、悔やまず】 20240207(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マルコの福音書 12:35~4412:35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。12:36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、12:39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。12:40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」12:41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。12:42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。12:43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。12:44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」 ある人々は犠牲すること、献身することを愚かなことだと思います。それは宗教的なことだけではないです。今の時代は職場でも、家庭でも、親子の間でも、犠牲する人をまるで個人の権利を守り抜けない愚かな人扱いをしているようです。最近はそのような理由で結婚と出産もしないという話をよく耳にしています。韓国は日本よりも低出産です。結婚もしない、子どもを産まない韓国社会に向けてIMF総裁が、「集団自殺社会」と言ったことも覚えています。強制できることは何もありません。しかし、人生は足し算と引き算だけで説明されることはないです。1つを引いても少なくなりませんし、1つをだしても多くもなりません。意味あるものに犠牲を払わない、価値あるものに献身しないならば、やりがいのある生き方はできなくなります。 信仰の大きさは献身の大きさと同じです。献身が小さいのに信仰が大きいとか、信仰が大きいのに献身が小さいということはありません。信仰と献身の大きさは同じでなければなりません。各自の信仰の真正性は、あゆみの中で献身の誠実さとして現れます。本来、献身という言葉には100%という意味しかありません。もし、献身が全面的な100%でなければ、それは献身という言葉ではなく、他の言葉を探さなければならないでしょう。摂氏100度にならないとお湯が沸かないし、お湯が沸かないと細菌はまだ生きています。クリスチャンであれば誰でも神様のみ旨を知りたいと願います。ある本で読みました。「神様のみ旨は、100%献身する時に分かります」と。 今日の本文ではイエス様が宗教指導者たちの破廉恥と偽善を批判した内容の後、貧しいやもめが持ち物全てをささげる話が対照的に出てきます。宗教リーダーシップに関すること、献金に関すること、以前にその中にある献身の純度に関することです。これは昨日読んだ「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言った申命記の律法精神の上にあります。いわゆる献身者という人々は偽善的で貪欲でしたが、貧しいやもめはすべてを持って献身しました。お金持ちがささげた金額の方が多かったでしょうが、彼女のものだけが100%のものでした。私たちの問題は、もしかして「100%にならない悲しみ」ではなく、「100%になりたくない未練」かもしれません。 ウィリアム·ボウデン (William Borden) という宣教師がいました。アメリカの億万長者の息子として生まれましたが、すべての財産を神様にささげ、宣教師として旅立ちました。ウィリアム·ボウデンの人生と宣教はそれほど長くありませんでした。まだ、若いときにエジプトで死にましたが、死後に残された彼の聖書にはこう書かれていました。「残らず、退かず、悔やまず(No Reserves, No Retreats, No Regrets)」 彼の人生が短かったことは残念ですが、彼は100%の献身者です。神様が待っておられるのは100%献身した一人です。宣教は宣教師ではなく神様がなされることで、宣教師がしなければならないことは100%聞き従うことです。「従順」というのが何なのかについては、人生と宣教の現場で重い宿題として持ち続かなければなりません。