詩篇 黙想 【われらの避け所】 20240305(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
詩篇 46:1~1146:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。46:2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。46:3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。46:5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。46:6 国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ46:8 来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。46:10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。10」「やめよ」といったのは、不安であっても他の慰めや助けを求めないようにということです。これは出エジプト記を思い出させます。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。出エジプト記14:14」エジプトはイスラエルを解放した後、心が変わりました。災いの日にはしばらく落ち込んでいましたが、災いが止まると自分の力を信じます。イスラエルも信仰がなかったのは同じです。奴隷生活が良かったと、モーセにあらゆる悪口を言いました。自分の力を信じて追いかけてくるエジプト軍と紅海を前にして震えているイスラエルに神様は言われました。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。出エジプト記14章14節」4節ではエジプト軍に神様が誰なのかを表すと言われました。「エジプトはわたしが主であることを知るようになる。4」エジプトとイスラエルはともに神様のなさる御業を見ることになるでしょう。 ボクシングのコーチが若いボクサーを訓練させることを見たことがあります。血気いっぱいの選手が自分は絶対に負けないと断言すると、チャンピオン出身のコーチは「すべての人は必ず負ける」と話していました。興亡盛衰を避けていくことはできず、必ず危機と患難が訪れ、失敗します。誰においても同じです。いかに頑張っても、いつかは負けることをプロは知っています。多くの人は自らを騙しています。信じられない自分のパンチを信じて生きているのです。患難の日を避けることができず、その日には今受けていることが守れなくなります。人生が自らを救える力を追い求めているようですが、実は人生も自分で自分を救えないということは知っています。実に人生が求めていることは慰めです。お金に慰められ、権力が慰められ、家族が慰められ、人気が慰められるということを知っているからです。一時的ですが、確かに慰めにはなります。しかし、その慰めは長続きができなく、真の慰めを受けられないように妨げるものです。その慰めに執着すると、信仰も、人間性も、道徳性も危なく、失ってしまうことがあります。 神様にのみ受けることができる慰めがありますが、それが魂の救いです。神様に救いの慰めを受けた人生は、他のものが与える慰めに執着することはできません。謙遜とは、滅びた後の後悔ではなく、興じる時にそれを認めることです。すべてが消えても、最後に残った避難所があることを望みます。 頼れば頼るほど良い、そのような避難所があるといいと思います。何ことにも頼れない時、じっとして神様の救いを見ることができればと幸いです。自分にじゃ世に打ち勝てる実力がないですが、信仰をもって静かに神様のなさることを見るのです。その証しがなくては神様を信じることはできません。 心を置くところがどこにもなく、頼るところがない時に神様が私たちの避難所になります。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」