詩篇 黙想 【耳の聞こえないコブラ】 20240321(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
詩篇 58:1~11 58:1 力ある者たちよおまえたちは本当に義を語り人の子らを公正にさばくことができるのか。 58:2 実におまえたちは心で不正を働き地で手の暴虐をはびこらせている。 58:3 悪しき者どもは母の胎を出たときから踏み迷い偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。 58:4 彼らには蛇の毒のような毒がある。耳の聞こえないコブラのように耳を閉ざし 58:5 蛇使いの声も聞こうとしない。巧みに呪文を唱える者の声も。 58:6 神よ彼らの歯をその口の中で折ってください。主よ若獅子たちの牙を打ち砕いてください。 58:7 彼らが流れ行く水のように消え去り神が矢を放たれるとき干上がりますように。 58:8 彼らが溶けて消え行くなめくじのように日の目を見ない死産の子のようになりますように。 58:9 おまえたちの釜が茨の火を感じる前に神はそれが緑のままでも燃えていても等しく吹き払われる。 58:10 正しい人は復讐を見て喜びその足を悪しき者の血で洗う。 58:11 こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」 ダビデの詩的修辞が面白いです。悪人に対して「若若獅子たちの牙」と言い、それは打ち砕かれます。悪人は「流れ行く水のように消え去り」と、「矢を放たれるとき干上がります」と義憤をあらわにしました。続いてダビデの修辞は「溶けて消え行くなめくじ」とも言いました。また「蛇の毒」と言い、それさえも人の言うことを聞かないので「耳の聞こえないコブラ」と言いました。耳の聞こえないコブラは、蛇使いが笛を吹いても踊りません。聴けないですから。耳を閉じて壺の中に閉じ込められている人々がいます。しばらくはかわいそうと思いますがが、すぐに離れなければなりません。そこからは必ず怖いものが飛び出してくるだからです。長い間開けていない箱の中に入っているもの、水たまりの下に沈んでいるものはすべて悪臭がして恐ろしいものです。閉じ込められ、溜まった場所から出てくるのはいつもそうです。 イエス様がバプテスマ・ヨハネの弟子たちと話された時「この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』マタイ11:16、17」とのことでした。これを話をされた経緯は、人々がバプテスマ・ヨハネが伝えることばも聞かず、イエス様の教えも聞こうとしなかったという話です。「踊らないこと」と「胸をたたいて悲しまないこと」について言われたのではなく「どうしても聞こうとしないこと」について言われたのです。笛を吹けば蛇が出て踊らなければならないだろうし、人が悲しくて泣いていると共感をしようが慰めようがしなければならないのに、当時の宗教は聴覚だけでなくすべての知覚が乾いてねじれていたからです。まさに耳の聞こえないコブラでした。 それでイエス様の訴えは常に「耳ある者は聞きなさい」でした。 宗教が閉鎖的に流れる理由は、本来の目的を失い、伝統という名で慣習化されるからであって、制度宗教が階級化され、いわゆる既得権が生まれるからです。韓国教会には量的拡張の機会だけでなく、成熟して成長できる神学的で社会的な機会がありました。しかし、多様性を受け入れるよりも、人々が押し寄せる集中力の誘惑の方が大きかったでしょう。自分が受け入れたものと違うからといって、必ずしも間違っているわけではありません。他のことに対して間違っているからといって、必ずしも自分のことが正当化されるわけでもありません。神学をしても教会に入ると、教会が設定したある時点にタイムスリップをしなければなりませんでした。その結果が、今日の偏狭な教会の頑固な非知性主義です。知ろうとせずに信じればいいと叫んでいる間に、知的分別のある人々と若者たちは教会を去りました。閉鎖的な宗教の壺の中には、あらゆる不正や腐敗が蔓延しました。 信者たちは主体的に知っていくことについて学ぶことができず、訓練と養育という名前で動員され、集団利己的で、非知性で、社会から信頼を受けない宗教を作ってきました。「力ある者たちよおまえたちは本当に義を語り人の子らを公正にさばくことができるのか。実におまえたちは心で不正を働き地で手の暴虐をはびこらせている。58:1、2」 ダビデは真理を言わなければならない時に沈黙し、良心と正直を裏切る悪者を耳の聞こえないコブラだと規定しました。自分で耳をふさいで耳が聞こえなくなってしまったコブラは、蛇使いが笛を吹いても踊りません。イエス様が訴えても聞きません。かえって十字架に釘つけて殺しました。壺の中にとぐろを巻いて座った耳の聞こえないコブラ、溶けて消え行くなめくじにならないためには自分の論理から抜け出し、力を尽くして耳を開き、聞かなければならず、その誤解と欺瞞を破って出てこなければなりません。