ルカの福音書 黙想 【過ぎ越しの子羊】 20240324(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ルカの福音書 22:1~13 22:1 さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。 22:2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。 22:3 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。 22:4 ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。 22:5 彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。 22:6 ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。 22:7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。 22:8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。 22:9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、 22:10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。 22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。 22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」 22:13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。 イエス様と弟子たちは過越しの祭りを迎えました。過越しの祭りには必ず子羊が必要です。出エジプトの時からそれを屠って礼拝し、皆でそれに分けて食べなければなりません。当時まで誰も気づきませんでしたが、その羊というのはイエス様ご自身です。まるでモリヤ山でアブラハムが礼拝する時、イサクが贖いの羊が必要にならなければならなかったように、2千年前のエルサレムの過越しの子羊はイエス·キリストご自身です。ただ、イサクとイエス様が違うのは、アブラハムの時にはイサクの代わりに神様のご用意されました羊にささげ物を変えることができましたが、イエス様はイサクのようには救わることはでできないということです。イエス様自身が血を流すささげものにならなければならないからです。 イエス様が十字架にかかった時、人々はイエス様を嘲笑いました。「祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。他人は救ったが、自分は救えない。マルコ15:31」十字架の物語の中には人間の悪い意図の言葉が神様のご計画を表わす重意的表現になることがあります。ヨハネ福音書11章にある「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。50」は大祭司がイエス様を殺すために言った言葉ですが、結果的に多くの人を救うためにイエス様が死ななければならないという神様のご計画について話したことにもなります。そこで「他人は救ったが、自分は救えないということも重意的表現であってある意味では事実です。十字架は多くの人々を救うことになりますが、それを成就するためにイエス様は十字架の苦しみから救われることはできないからです。 イエス様の十字架は、罪からくる結果であり、呪いであり、懲罰であることは確かです。イエス様ご自身の罪ではありませんが、イエス様が十字架の使命に聞き従った時からはもうすでに贖いのささげものになるからです。十字架の死の恐怖と苦痛が始まったということは、イエス様の体にすでにすべての罪が入ったということです。罪の報酬は死です。血を流さなければ、罪ゆるしはありません。ですから、その罪のかたまりは必ず死ななければなりません。イエス様が贖いのためのささげものになった以上、その責任を負わなければなりません。礼拝者は贖いのささげものに自分の罪を転嫁することができますが、ささげものはこれ以上転嫁する対象がありません。死ななければありません。人間が自分の血を流さないためには、もっぱらイエス·キリストの血潮の中にとどまらなければなりません。苦難週にこれが告白できなければイースターを迎えることはできないでしょう。 イエス様は過越しの祭りをを過ごすために弟子たちと一緒に居所を準備しておられました。それと同時に祭司長、律法学者たちはイエス様を殺す準備をしていました。そしてイスカリオテ・ユダは彼らと内通してイエス様を売る準備をしていました。それぞれ自分のことを準備をしており、それは十字架を推進している神様の準備に統合的に結ばれます。ここで誤解一つを正さなければなりません。この本文を読む私たちの感情というのは、イエス様を殺そうとする人々の陰謀に対する驚愕や、イエス様を売ろうとするイスカリオテ・ユダの裏切りに対する怒りではありません。彼らを非難することと、自分は彼らのようにしないと誓う教訓的適用が、十字架の黙想の結果になってはいけません。十字架を考える私たちは「人間がどのように行動するのか」という教訓ではなく、「神様がどのようにされたのか」という福音を捜し出さなければなりません。 救われたものが考えるイエス様の十字架の理由というのは、自分の罪でなければなりません。神様の救いの物語は、このように厳粛で断固として悠々と流れています。十字架の背景に登場する人間は少しも特別なことはありません。常に憎み、常に謀略し、絶えず裏切り、お互いを殺し合い、自分の利益を求めて騙し合う、今の私たちと少しも変わりません。ただ子羊イエス·キリストが黙々とそのような人間の贖いのために屠り場に連れられているだけです。私の目にはこの十字架の話しの中でイエス様を売るイスカリオテ・ユダとイエス様を殺そうとする大祭司と律法学者たちは見えません。ただ私を救うための神様の救いの御心と、それに従い、十字架に上る子羊イエス・キリスト以外は何も見えません。