ルカの福音書 黙想 【父の願い】 20240326(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ルカの福音書 22:39~53 22:39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。 22:40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。 22:41 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。 22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」 22:43 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。 22:44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕 22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 22:46 そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」 22:47 イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ、群衆がやって来た。十二人の一人で、ユダという者が先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。 22:48 しかし、イエスは彼に言われた。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。」 22:49 イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 22:50 そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。 22:51 するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。 22:52 それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。 22:53 わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」 十字架の陰が垂れ下がる時、イエス様はオリーブ山の暗いゲッセマネで祈りました。極度の恐怖と不安の中でささげられた切なる祈りでした。弟子たちにとりなしの祈りを頼み、油を搾るように祈り、汗が血になって落ちるようにまで祈りました。必死の祈りです。近づいている十字架の恐怖に耐えられなかったので、助けを求める祈りでした。そこでイエス様は「この杯をわたしから取り去ってください」と祈りました。しかし、条件がついています。祈りは請願することで終わらず、神様のみこころを尋ね、探り、それに従うことで完成するからです。イエス様は避けられることなら避けたいと祈りを始めましたが、ついに「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈りを終えました。神様はこの祈りを聞き、神様のみこころ通りにされました。恐怖に怯えて助けを哀願する息子の願いを聞き入れられない父の願いというのは何でしょうか?一人息子を屠殺場の牛のように屠って成し遂げなければならない父の願いというのは一体何ということでしょうか? 人間は、自分の意志によって神様への愛を増やせることはできません。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Ⅰヨハネ4:10」 信仰の大きさは神様の愛に気づく大きさです。息子を死に追いやってのは、私を救うためです。その愛でなければ何ことを持っても説明できません。母が子どものために献身できるのは、犠牲の大きさよりも愛の大きさが大きいからです。 なので犠牲はできます。何かに犠牲することができれば、それには犠牲するような価値、目的があるからです。神の御子が十字架で苦痛を受け、死ななければならなかった犠牲は、父なる神様の願いを叶えなければならない目的があるからです。その目的というのは私を愛すること、父の願いというのは私を救うことです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。Ⅰヨハネ4:9」苦難週に私たちが黙想しなければならないことは「どれほど痛かっただろうか」ではないでしょう。その苦痛はどんなに努力しても共感できるものではありません。まことに考えなければならないのは「どれだけ愛したのか」です。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。ヨハネ13:1」十字架は死ぬまで愛し、最後まで愛した証しです。