Ⅰ列王記 黙想 【青銅の海】 20240417(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
Ⅰ列王記 7:23~517:23 それから、彼は鋳物の「海」を作った。縁から縁まで十キュビト。円形で、高さは五キュビト。周囲は測り縄で巻いて三十キュビトであった。7:24 その縁の下に沿って、瓢簞模様が周りを取り巻いていた。一キュビトにつき十ずつの割合でその「海」の周りを取り巻いていた。この瓢箪模様は二段になっていて、「海」を鋳たときに鋳込んだものである。7:25 「海」は十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。「海」はこれらの牛の上に載せられていて、牛の後部はすべて内側を向いていた。7:26 「海」の厚さは一手幅あり、その縁は杯の縁のように、ゆりの花の形をしていた。その容量は二千バテであった。7:27 彼は青銅で十個の台を作った。それぞれの台は長さ四キュビト、幅四キュビト、高さ三キュビトであった。7:28 この台の構造は次のとおり。台には鏡板があり、鏡板は枠にはめられていた。7:29 枠にはめられている鏡板の上には、雄獅子と牛とケルビムがあり、雄獅子と牛の上下にある枠の表面には花模様が施されていた。7:30 台には、それぞれ、青銅の車輪が四つと、青銅の軸が付いていて、台の四隅には洗盤の支えがあり、その支えは洗盤の下にあって、それぞれの表面に花模様が鋳込まれていた。7:31 洗盤の口は冠の内側にあって、一キュビト上に出ていた。その口は丸く、花模様の細工が施され、一キュビト半あった。またその口の上にも彫刻がしてあり、枠の鏡板は四角で、丸くなかった。7:32 四つの車輪は鏡板の下にあり、車軸は台に取り付けられ、一つの車輪の高さは一キュビト半であった。7:33 その車輪の作りは戦車の車輪の作りと同じで、車軸も輪縁も輻も轂も、みな鋳物であった。7:34 それぞれの台の四隅には、四本の支えがあり、支えと台は一体となっていた。7:35 台の上部には高さ半キュビトの丸い部分が取り巻いていて、その台の上の支えと鏡板は一体となっていた。7:36 その支えの表面と鏡板には、それぞれの場所に、ケルビムと雄獅子となつめ椰子の木を刻み、その周囲には花模様を刻んだ。7:37 彼は以上のように十個の台を作った。それらはすべて同じように鋳造され、同じ寸法、同じ形であった。7:38 それから、彼は青銅で十個の洗盤を作った。洗盤の容量はそれぞれ四十バテ、大きさはそれぞれ四キュビトであった。洗盤はそれぞれの台に一個ずつ、十個の台の上にあった。7:39 彼はその台の五個を神殿の右側に、五個を神殿の左側に置き、「海」を神殿の右側、東南の方角に置いた。7:40 さらにヒラムは灰壺と十能と鉢を作った。こうして、ヒラムは、ソロモン王のために主の宮でなすべきすべての仕事を完了した。7:41 すなわち、二本の柱と、二本の柱の頂にある丸い柱頭、および柱の頂にある丸い二つの柱頭をおおう二つの格子細工、7:42 また、二つの格子細工に取り付ける四百個のざくろ、すなわち、柱の先端にある丸い二つの柱頭をおおうそれぞれの格子細工のための二段のざくろ、7:43 また、十個の台と、その台の上の十個の洗盤、7:44 「海」一つと、その「海」の下の十二頭の牛、7:45 そして、灰壺と十能と鉢である。ヒラムがソロモン王のため、主の宮のために作ったこれらのすべての物は、磨きをかけた青銅であった。7:46 王は、ヨルダンの低地、スコテとツァレタンの間にある粘土の地でこれらを鋳造した。7:47 ソロモンは、すべての用具を配置した。非常に大量だったので、青銅の重さは量られなかった。7:48 また、ソロモンは主の宮にあるあらゆる物を作った。金の祭壇と、臨在のパンを載せる金の机、7:49 内殿の前、右側に五つ、左側に五つ置かれる純金の燭台、金の飾り花、ともしび皿、芯切りばさみを作った。7:50 また純金の皿と、芯取りばさみ、鉢、平皿、火皿を純金で作った。至聖所に通じる神殿内部の扉のちょうつがい、神殿の本殿に通じる扉のちょうつがいも金で作った。7:51 こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。 青銅の専門家ヒラムが神殿の中庭に青銅の海とその他に洗盤と飾りを造ります。青銅の海とは清潔の儀式のために、青銅製の大型貯水槽のようなものです。直径が5メートル、高さ2.5メートル、貯水量は45トンから68トンになる巨大な水槽でした。それで海と呼んでいました。ユリの形をした青銅の飾りがあり、12頭の雄牛が青銅の海を支える形になっています。実用的な意味では少数の祭司が洗うために大型貯水槽までは必要ないですが、海と名づけたことから考えると、それに浄化という意味があると思います。海は測れないほど広いものであって、海の浄化能力をも知っていたのではないでしょうか?それを眺めるだけで浄化されるという願いがあったと思います。 清潔のための青銅の海でしたが、イスラエルが清潔でなかったとき、それは解体されてしまいます。後代に弱くなった南ユダは海と雄牛を分離して雄牛12頭をアッシリヤに貢ぎ物として捧げ、バビロニアは海を破壊し、解体して持って行きました。エゼキエルを思い出しました。 エゼキエルはバビロニアによって捕虜として連れられた人です。エゼキエルは、滅亡の苦痛と捕虜生活の絶望の中で、3つの幻を見ましたが、一つは乾びた骨の幻、二つ目は新しいエルサレムと新しい神殿が再建される幻で、三つ目は神殿から流れる生ける水の幻でした。神殿の敷居の下から水が出て、祭壇を通って流れるところごとに繁盛し、ヨルダン川を通り、死海に流れ込み、死んだものがよみがえります。 ヨハネ福音書の7章で、「イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。7:37、38」とあります。ここの生ける水はイエス様ではなくイエス様が遣わすもの、すなわち聖霊のことです。「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。7:39」ヒラムの青銅の海とエゼキエルの神殿の生ける水は聖霊です。それはキリストをもたらすものです。聖霊のよってイエス・キリストを信じます。イエス·キリストは水ではなく血だからです。神様にささげなければならない犠牲のささげものです。聖霊の水で洗われた人はイエス·キリストの血によって洗われ、それによって神様に出会います。渇いた心と魂を濡らす、聖霊を慕い求めます。