Ⅰ列王記 黙想 【恵みという生き方】 20240507(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
Ⅰ列王記 14:1~2014:1 このころ、ヤロブアムの子アビヤが病気になったので、14:2 ヤロブアムは妻に言った。「さあ、変装し、ヤロブアムの妻だと分からないようにしてシロへ行ってくれ。そこには、私がこの民の王となることを私に告げた預言者アヒヤがいる。14:3 パン十個と菓子数個、それに蜜の瓶を持って彼のところへ行ってくれ。彼は子どもがどうなるか教えてくれるだろう。」14:4 ヤロブアムの妻は言われたとおりにして、シロへ出かけ、アヒヤの家に行ったが、アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができなかった。14:5 しかし、主はアヒヤに言われた。「今、ヤロブアムの妻が来て、子どものことをあなたに尋ねようとしている。その子が病気だからだ。あなたは、これこれのことを彼女に告げなければならない。入って来るときには、彼女はほかの女のようなふりをしている。」14:6 アヒヤは、戸口に入って来る彼女の足音を聞いて言った。「入りなさい、ヤロブアムの妻よ。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたに厳しいことを伝えなければなりません。14:7 行って、ヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしは民の中からあなたを高く上げ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、14:8 ダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。しかしあなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。14:9 ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。行って自分のためにほかの神々や鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。14:10 だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。イスラエルの中の、ヤロブアムに属する小童から奴隷や自由な者に至るまで絶ち滅ぼし、人が糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家の跡を除き去る。14:11 ヤロブアムに属する者は、町で死ぬなら犬がこれを食らい、野で死ぬなら空の鳥がこれを食らう。』主が、こう言われたのです。14:12 さあ、家に帰りなさい。あなたの足が町に入るとき、その子は死にます。14:13 全イスラエルがその子のために悼み悲しんで葬るでしょう。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、彼だけです。ヤロブアムの家の中で、彼だけに、イスラエルの神、主のみこころにかなうことがあったからです。14:14 主はご自分のためにイスラエルの上に一人の王を起こされます。彼はその日、いや、今にもヤロブアムの家を絶ち滅ぼします。14:15 主はイスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖に与えられたこの良い地の面からイスラエルを引き抜き、あの大河の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシェラ像を造って主の怒りを引き起こしたからです。14:16 ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪のゆえに、主はイスラエルを捨てられるのです。」14:17 ヤロブアムの妻は立ち去って、ティルツァに着いた。彼女が家の敷居をまたいだとき、その子は死んだ。14:18 人々はその子を葬り、全イスラエルは彼のために悼み悲しんだ。主がそのしもべ、預言者アヒヤによって語られたことばのとおりであった。14:19 ヤロブアムについてのその他の事柄、彼がいかに戦い、いかに治めたかは、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。14:20 ヤロブアムが王であった期間は二十二年であった。彼は先祖とともに眠りにつき、その子ナダブが代わって王となった。 ヤロブアムの息子アビヤが病気になって危篤しました。ヤロブアムは自分の妻を変装させ、預言者アヒヤに送って息子の運命について尋ねさせます。しかし、ヤロブアムの妻が到着する前に、神様は預言者にあらかじめ命じられます。預言者が言うには、病気の子はヤロブアムの妻が帰るやいなや死ぬし、ヤロブアムに属した者たちは悲惨に死に、その死体を犬が食べ、鳥が食べると言いました。 神様は預言者アヒヤを通して、ヤロブアムが王になると言われたことがあります。それは確かにヤロブアムに機会が与えられたことであり、特別な恵みを受けたことです。それで一躍王になりましたから。しかし、ヤロブアムが受けた恵みは持続せず、滅亡で終わります。機会が与えられ、役割が与えられること、注目され、成功することをただの恵まれたという言葉で結論づけることはできないです。それで終わるのではないです。それは約束だからです。約束を守らなければ、それは続けられません。 証しをすることは恐ろしいことだとよく思っています。過去に恵まれたことを証しをするということは、以前の記憶を繰り返すのではなく、その恵みが求める生き方で今ここで生きなければならないことだからです。神様が機会を与えた理由があるはずです。だから証しをしようと思ったら過去の事件ではなく、現在の生き方について話さなければなりません。王になった事件ではなく、王らしく生きていることを証さなければなりません。ヤロブアムはそのように生きていなかったため、その大きな恵みを受けたにもかかわらず結局は滅びることになります。 ヤロブアムの子らが皆惨めに死ぬことになりますが、まもなく死ぬことになる病気の息子だけが墓に葬られると言われます。その子だけが偶像に拝まず、主のみこころにかなうことがあったからですと言われます。病気で死ななければならないヤロブアムの息子の人生は不幸ですが、その子だけが神様に認められました。まもなく滅びる王がいるかと思えば、病気になって死ぬ運命でも神様に認められる人がいます。 そういえば権力や富、社会的成就と無病長寿は神様の恵みを測定する尺度ではないようです。恵みは目に見えるもの、手に持てるものでは分からないからです。恵みの証しは生き方です。何を追い求め、何のために生きるかという生き方だけが恵みを測定する尺度です。ヤロブアムのもう一人の子、ナダブが次の王になります。王の座は依然として栄光の座です。ナダブは果たしてその栄光の恵もに従う生き方をするのでしょうか?列王記を読み続けてみないと分かりません。そして、私たちの人生と信仰ももう少し続けることで、その真偽が明らかになるでしょう。