Ⅰペテロ 黙想 【従順の対象】 20240604(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
Ⅰペテロ 2:11~252:11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。2:13 人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、2:14 あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。2:16 自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。2:17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。2:18 しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。2:19 もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。2:21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。 ペテロは聖徒たちに世の権威に従うように言っています。聖徒とは律法から自由になった人ですが、それを放縦の機会にせずに仕えるしもべになることを言っています。それが神様の中にある自由です。ペテロが語る神様を恐れるということは、宗教に従属していることではありません。王を敬い、目上の人を敬い、兄弟を愛し、被雇用者は雇用者に従うものの、自発の時だけでなく、自分に意地悪な主人に対しても最善を尽くして仕えることを言っています。 それは苦しまれましたがが、最後まで耐え忍び、従ったイエス様に従う信仰です。とはいえ、おとなしいから信仰の人になるわけではありません。善良な人をすなわち信仰の人とは言えませんが、信仰を証しするには善良でなければならず、信頼の関係を成さなければならないでしょう。聖徒を巡る周辺は必ずしも好意的ではありませんし、そのような状況の中で聖徒は自分を通して証しなければならないキリストのことを常に考えなければなりません。良い人だから信仰の人ではありませんが、信仰のためには悪くなってはいけませんし、無責任になることもできません。 本日も御言葉を読んでいますが、私たちは御言葉に従う人です。そして、神様の御言葉はそれぞれの状況と断絶されていることではありません。聖徒に与えられた状況があるから、与えられた御言葉を思い巡らします。このようなプロセスを主体的に行わない人に信仰は、神様のことも、状況のことも理解できなくなります。聖徒は状況に従わなければなりません。それは、否定的な状況にあきらめたり、妥協したりするという意味ではありません。 状況に従順するということは、与えられている状況を受け入れ、克服していくという意味です。与えられた状況を信仰をもって克服するためには、現実認識と自己否定は必ず伴わなければできません。神様に与えられた環境と状況の中で、神様の御旨に従い、すべてのことの主権者である神様のご計画と摂理を信じて歩むのです。聞き従う信仰とは観念的または受け身ではなく、実際的であり、積極的なものです。従順は臆病の人のものではなく、強い人のものです。