Ⅱ列王記 黙想 【執着と不安】 20240731(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
Ⅱ列王記 17:34~41 17:34 彼らは今日まで、以前の慣わしのとおりに行っている。彼らは主を恐れることはなく、主がイスラエルと名をつけたヤコブの子たちに命じられた、掟や定めや律法や命令のとおりに行うこともない。 17:35 主はイスラエル人と契約を結び、次のように命じられた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝み、これに仕えてはならない。これにいけにえを献げてはならない。 17:36 大きな力と、伸ばされた腕をもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえを献げなければならない。 17:37 主があなたがたのために書き記した掟と定めと律法と命令をいつも守り行わなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。 17:38 わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。 17:39 あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」 17:40 しかし、彼らは聞かず、以前の彼らの慣わしのとおりに行った。 17:41 このようにして、これらの民は主を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行った。今日もそうである。 17章では、「恐れ」という言葉が12回繰り返されます。今日の本文でも、「恐れ」という言葉が7回出てきますが、40節を除くすべての節でこの言葉が使われています。韓国語では「敬畏」となっていますが、尊敬の「敬」と「畏」なので愛しながらも恐れるという意味です。この二つの思いが共存し、調和できるということは私たちがすでに知っています。ヘブライ語では「ヤレ(יָרֵא)」という言葉でありますが、やはり、恐れを意味します。ただし、これは恐怖ではなく、尊敬と愛を伴う「畏」です。愛が深ければ恐れもあります。大切だからこそ、その大切さを扱う態度から恐れが生じるのです。 本文で使われている「恐れ」は、神様に対しても使われていれば、偶像に対しても使われています。偶像を「敬畏」するということです。偶像を愛するあまり、それを失うのではないかと心配するのです。神様を愛さず、神様を恐れないと、人間は必ず他のものを慕い、執着するようになります。目に見える偶像を拝まず、目に見えない神様に仕えるということは、目に見えるものに心が引かれやすいのですが、生を支える基盤と構造の中にある神様の恵みを考えなさいということです。 神様を愛するということは、神様にみならっていくことであり、神様を恐れるということは、自分を制御するということです。これに対して、偶像を愛するということは、自分に執着することであり、偶像を恐れるということは、それを失うのではないかと常に不安になるということです。神様を恐れるか、偶像を恐れるか、それをもって区別できます。神様が恐れを求められる以上、人間には神様を愛するような力があり、自分を制御する力をもあるということです。誘惑があっても、より重要なことを考える人は、自分の身体と心を守ることができます。 神様の恵みは目に見えなくても、人生の構造を形成していることでしょう。それを当然の権利、特別でない日常と考えてしまうかもしれません。しかし、イスラエルは奴隷の民、荒野で彷徨う民族でした。彼らが何を必要とし、何を追い求めていたかは分かりませんが、その生活がすでに神様の恵みの上にあるということを考えなければなりませんでした。神様を愛して神様と神様の恵みを考えると、神様の恵みの外に出ることは恐ろしいことです。恐れるべきことを恐れ続けたいと思います。