列王記第二 黙想 【世の中のキリスト者】 20240802(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
列王記第二 18:13-25 18:13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。 18:14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュのアッシリアの王のところに人を遣わして言った。「私は過ちを犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに、銀三百タラントと金三十タラントを要求した。 18:15 ヒゼキヤは、主の宮と王宮の宝物倉にある銀をすべて渡した。 18:16 そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、自分が主の神殿の扉と柱に張り付けた金を剝ぎ取り、これをアッシリアの王に渡した。 18:17 アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来ると、布さらしの野への大路にある、上の池の水道のそばに立った。 18:18 彼らが王に呼びかけたので、ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフは、彼らのところに出て行った。 18:19 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。 18:20 口先だけのことばが、戦略であり戦力だというのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。 18:21 今おまえは、あの傷んだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、それは、それに寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。 18:22 おまえたちは私に「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め」と言った、そういう主ではないか。 18:23 さあ今、私の主君、アッシリアの王と賭けをしないか。もし、おまえのほうで乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう。 18:24 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来である総督一人さえ追い返せないのだ。 18:25 今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。』」 聖書は世界中のベストセラーで、今でも多くの国、部族の言語に翻訳され、語られています。それは、聖書の内容がこの世の中に伝えられているという意味でもあります。 しかし、これらの聖書の内容が伝えられるのはキリスト者だけではありません。単なる教養知識として聖書の内容に接する人も、むしろ聖書を批判し、キリスト教を批判するために聖書の内容を研究する人も大勢いるでしょう。 今日エルサレムに攻め込んできたアッシリア人たちもやはり、イスラエルの神である主について知っていました。エルサレムの祭壇の前だけで礼拝しなければならないという規例も知っていて、イスラエルの人々が口癖のように告白していた「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」ということも知っていました。むしろ、アッシリア人のラブ・シャケの言葉がイスラエルを叱る預言者の言葉のように聞こえるようです。しかし、彼は明らかに神様について誤解しています。 このようなことは、聖書が世界中のベストセラーとなっているこの時代を生きている私たちにも同じく起こっているでしょう。聖書に対する浅い知識や理解を持ってキリスト者を騙し、批判する人々は確かに今の時代にも存在しています。私たちはそのような世の中に遣わされたキリスト者として生きていくのです。 彼らの言葉に惑わされないためには、聖書を正しく知ることが必要でしょう。一節の御言葉に頼るのではなく、その御言葉を囲んでいる聖書全体に頼り、口癖のような告白ではなく、こころからの告白として神、主に拠り頼むと告白しなければならないでしょう。https://youtu.be/GgFab1Gj8eE?si=It92IBEl8H64bnrH