Ⅱテサロニケ 黙想 【不法の者】 20240829(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
Ⅱテサロニケ 2:1~122:1 さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。2:2 霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。2:3 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。2:4 不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。2:6 不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。2:7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。2:9 不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、2:10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。2:11 それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。2:12 それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。 ■テサロニケ教会内には、キリストの再臨に関する誤解がありました。そのため、パウロはそれを正す必要がありました。当時、主の日が間近に迫っていると教える者たちがいたり、主がすでに再臨されたと教える者もいました。パウロはその誤った知識を修正し、その誤った教えの背後にある悪意や原因も取り除く必要があったのです。 ■主の再臨については、すべての信徒が関心を持っています。イエス様を愛する者は、イエス様が再び来られることを待ち望んでいるからです。しかし、イエス様を愛していない者は、再臨に関心がありません。それを信じてもいません。本書は、そのような者を「不法の者」と呼んでいます。不法の者たちの関心は、信徒たちの関心を利用して利益を得たり、宗教的に支配しようとすることです。これを終末論的な支配または終末論的なコントロールと呼びます。 ■異端やカルトの問題は、信仰の問題というよりも経済的な問題です。現在活動しているいわゆる異端宗教は、聖書解釈の誤りではなく、愚かな信徒たちを対象に宗教ビジネスをしているカルトです。信徒たちはそれに騙されているのです。恥ずかしいことに、異端やカルト新興宗教団体は教会内でその宗教市場の可能性を学びました。信徒が神の言葉を知らないという市場分析が終わったのです。再臨は重要な営業戦略となり、それを餌にして自分が支配できる愚かな人々を探しているのです。 ■イエス・キリストを待ち望む信徒であれば、必ず分別しなければならないことがあります。それは、再臨のタイミングではなく「人」です。再臨の時は分別しようとしても分別できないでしょう。神の時に神が来られるのです。人はその時を分別するのではなく、その時を語る人々を分別しなければなりません。再臨だけではありません。神について語る人々をすべて分別する必要があります。 ■多くの人々は、素晴らしい牧師がいる良い教会に通えば信仰生活をうまくやれると思っています。もちろん、それはその通りでしょう。しかし、そのような教会と牧師を分別するのは各個人がすべきことではないでしょうか?霊的という言葉を多用し、扇動するのが好きな人々には注意してください。私は個人的に、ある人が自分の教会や主任牧師に対して過剰な自負心や誇りを持っているのを見ると、その教会の支配構造を疑います。 ■御言葉を知らなければ、御言葉を分別する基準がありません。自分の心にあるものを読み取れなければ、神に対して正直であることができず、騙そうとする者の心の中にあるものを分別できなければ、騙されるしかありません。Ⅱテサロニケで言う「不法の者」は、異端の者や危険なカルト宗教の者に限りません。私たちの中に混ざっているかもしれないし、もしかしたら私たちが購読し視聴しているYouTubeチャンネルかもしれません。そこに神はいません。自分で読み、考え、質問する方法で神を学ぶ人は、騙されることはありません。騙す人も不法であり、騙される人も不法です。人を追いかける者は必ず人の罠に陥るでしょう。人の言葉を消し、神の御言葉の前に座りましょう。