ネヘミヤ記 黙想 【差別と区別】 20240928(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
ネヘミヤ記 13:1-9 13:1 その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アンモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。 13:2 それは、かつて彼らが、パンと水をもってイスラエル人を迎えることをせず、かえってバラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからであった。私たちの神はその呪いを祝福に変えられた。 13:3 民はこの律法を聞くとすぐに、混血の者をみなイスラエルから切り離した。 13:4 これより以前、祭司エルヤシブは、私たちの神の宮の部屋を任されていて、トビヤと親しい関係にあったので、 13:5 トビヤのために一つの大きな部屋をあてがっていた。以前その部屋は、穀物のささげ物、乳香、器、またレビ人や歌い手や門衛たちのために定められていた、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、さらに祭司のための奉納物を保管するところであった。 13:6 この間ずっと、私はエルサレムにいなかった。私が、バビロンの王アルタクセルクセスの三十二年に王のところに行き、その後しばらくして王にいとまを乞い、 13:7 エルサレムに帰って来たからである。そのとき私は、エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。 13:8 私は大いに気分を害し、トビヤ家の家財をすべてその部屋から外へ放り出し、 13:9 命じて、その部屋をきよめさせた。そして私は、神の宮の器を、穀物のささげ物や乳香と一緒に再びそこに納めた。 礼拝共同体が形成されたイスラエル民は、神様の御言葉を聞き、その通りに行うことに力を注ぎました。そしてその中には、もしかしたら私たちの心を不快にさせるかも知れない姿が記録されています。それは今まで一緒に過ごしていた者たちを容赦なく切り離す様子です。 以前の黙想で、イスラエルは捕虜期を終え、彼らの選民思想を捨てることになったという内容を扱ったことがありますが、今日のイスラエル民の様子は、まるでその選民思想が再びできたしまったように見えるかもしれません。 今日の箇所でイスラエルの民が聞いただモーゼの書は、私たちがよく知っているモーゼ五書、創世記から申命記までの律法書です。彼らはそこからアンモンの人とモアブの人についての御言葉、特に民数記に出てくるするモアブの人たちと、彼らがバラムを通してイスラエル民に罪を犯させたことを発見しました。そして、御言葉に従って、自分たちの中でアンモン人とモアブ人、混血たちを切り離しました。 しかし、彼らが律法書から見た通り、アンモン人とモアブ人の中には神の集会、礼拝共同体に加えられた人がなかったのでしょうか。そうではありませんでした。申命記までの律法書を通り過ぎ、士師の時代に登場する人物、ルツはモアブの人でした。しかし、ルツは明らかにイスラエル共同体に加わって、イエス様の家系図にその名が残されるまでになりました。 このことから、イスラエルの民が自分たちか切り離したアンモン人とモアブ人、混血の人とは、民族や血統だけを意味するのではなく、彼らのアイデンティティ、彼らの信仰を意味するとも考えられるでしょう。そして、それは、イスラエルの民のアイデンティティと信仰が神様によって回復されたように、彼らもなお、いつでも神様によってアンモン人、モアブ人という存在からイスラエルの礼拝共同体の一員になれるということだとも言えるでしょう。そう考えると、今日イスラエルの民が行ったことは、世俗的な差別ではなく、信仰による区別だと言えると思います。 真理の御言葉と争う現代の数多くの問題、そしてその人々に向かって、教会が行うべきことは世俗的な差別ではなく、信仰による区別です。彼らを排除するのではなく、再び神様に立ち返られるように、イエス·キリストの十字架によって罪を赦され、神様に向かう心を回復し、再び一つの礼拝共同体を成し遂げられていくように助け、祈り、備えることが、この時代を生きていく教会の使命であるでしょう。https://youtu.be/1_tnPcDoOzc?si=sGEhrNHryqYwjilQ