ガラテヤ人への手紙黙想 【キリストとともに十字架につけられたということの意味】 20241021(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ガラテヤ人への手紙 2:11~212:11 ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。2:12 ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。2:14 彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこう言いました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。2:17 しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。2:18 もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。今わたしが肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きているのです」(ガラテヤ2:20)。この御言葉は、多くの人々が暗唱し、好む聖句です。福音に対する明確な信仰告白であり、献身的なクリスチャンだからこそ告白できる御言葉です。そのため、揺るぎない信仰や献身の意思を示すとき、この聖句がよく引用されます。 ただし、文章は文脈に沿って読むことで、誤解なくその本来の意味を理解できます。この聖句が全体の文脈の流れの中でどのような役割を果たしているのかを確認することが大切です。この御言葉の背景には、パウロがペテロを叱責した出来事があります。ペテロが非ユダヤ人信者たちと食事をしていたとき、ユダヤ人が近づいてきたことで律法を意識し、その場を離れたことに対し、パウロが公然と批判したのです。ガラテヤ2章は、使徒の働き15章以降です。使徒の働き15章でのエルサレム会議では、ユダヤの律法を非ユダヤ人クリスチャンに強制せず、彼らを同等の兄弟として認めることが既に合意されていました。ペテロもそれに同意していたのです。 それにもかかわらず、ペテロがユダヤ人たちの視線を気にして非ユダヤ人との食事を避けたことは、その合意を無視し、非ユダヤ人信者を差別する行為だとパウロは批判しました。福音よりも教会の権威よりも兄弟への敬意よりも、ユダヤの律法と慣習を優先した臆病で偽善的な行為だというのです。異邦人にも同じ信仰と救いの機会が与えられるべきだと、宣教の現場で直接確認したのはパウロでした。また、エルサレム会議でそのことを発題したのもパウロでした。パウロにとって福音は、ユダヤ人と非ユダヤ人の両方に同じ恵みをもたらすものであり、それは彼が自らの経験を通じて学んだ、拒むことのできない神学でした。 ガラテヤ2章20節は、こうしたパウロとペテロの一種の対立を整理する過程で出てきた言葉です。パウロがこの出来事をガラテヤの信徒に伝えたのは、このことを通して福音の理解を再確認させるためでした。19節でパウロは、「わたしは律法によって律法に対して死にました。それは、神に対して生きるためです」と語り、最後の21節では、「もし義が律法によって得られるなら、キリストの死は無駄になったことになります」と述べ、律法学者出身のパウロ自身が、律法ではなく、キリストへの信仰による福音の理解を明確にしています。 この2章20節は、その文脈の中に挟まれています。したがって、この聖句も「福音の理解に対する告白」として読むべきものです。「どのように生きるか」という意思表明に先立ち、福音とは何かを理解したという告白なのです。「わたしはキリストとともに十字架につけられた」というのは、自分を献身したという意味ではなく、十字架の意味が自分のものになったということを意味します。つまり、福音の中で生きるようになったということです。「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰」です。ガラテヤ2章20節をもう一度かみしめ、この告白を自分のものとして受け入れられると良いでしょう。これまで教会の時代において、熱心さに欠けることはありませんでした。むしろ欠けていたのは、理解でした。パウロが告白したように、福音が理解できれば、その理解に従って生きていくことができるのです。